歩き、見、ふれる、歴史学 1AG98020今林由希 1AG98015市川美里 Am10:30ごろ農協にてバスを下車。井上茂さん(下場の生産組合長)宅が住宅地図で見つかっていなかったので、とりあえず、下場に向かって歩き出す。下場まで歩くこと約30分、下場の人に聞いても茂さんの家が分からないので、お宅に電話してみる。茂さん宅は、下場ではなく、納所小学校あたりだったので、来た道を戻る。あちこち歩き回ったが、予定していた11:30ごろにちょうど到着する。 以下は聞いた話。 <「しこ名」について> 「しこ名」という言葉は、普段あまり使わないようで、意味を理解してもらうのに、だいぶ時間が、かかった。お話に聞いた「しこ名」は、地図に記入したので、ここでは省く。 <水利について> 以前は、まったく天水だけだったそうだが、現在は、唐津にある松浦川から水をくみ上げ、あげくらダムに溜めて、それを山ノ神溜めにひいているそうだ。山ノ神溜めは、長田溜めと水路でつながっており、村全体に、水は行き渡るようになった。このダムは、今年できあがったそうだ。 この辺りは、だいたい水が少ないそうで、早期栽培のコシヒカリを植えている農家がほとんどで、梅雨時期の水を十分に得られるようにしてある。 1994年の大早魅の時は、もともと水が少ない地域なので、被害が深刻だったらしく、その時期の水争いのことは、「水のけんか」とよばれていた。気の利いた人は、夜のうちに、水路をせきとめ、「はつどうき(水あげ機械)」を回し、自分の田んぼに水が行き渡るようにしていたそうだ。水路から遠い田のほうが、被害が深刻だったらしい。水がなく、田がひびわれていても、水タンクに水をかけ、少しずつでも水を入れておけば、稲のできは、だいぶ変わってきたそ うだ。この年は、思ったよりも稲のできはよかったということだ。 また、水の入れすぎは稲の成育によくないらしく、いつも水位が調節してあり、その水の流し口を「みなくち」と呼ぶそうだ。このあまって流れた水は、海の入り口で溜め直し、機械で汲み上げ、再び利用しているそうだ。 ため池にある堤防は、「ためんでい」と呼ばれている。堤防には、水位を調節するせんがたくさんあり、水がいるときは、いるぶんだけ流れていくように、管理者のひとが、せんを抜き、調節することになっている。 <古道、昔の暮らしについて> 納所については、昔から米作り専門の農家が多かったようだ。このあたりは、小高い丘などが、ちょくちょくあって、道も曲がりくねっているところが多い。よって、近道になるみちがだいぶあった。小学校は、肥前町に1つしかないらしく、小学校への近道は、多くの人が、利用していたそうだ。駄竹へ行くときは、その道を通ってみたが、坂が急で、雨が降ったこともあり、かなり歩きにくい道であった。だが、10分位の時間短縮になった。 また、「〜でい」のような名前のついている道は、田んぼのど真ん中を通っており、地元の人には、風の強い道という印象があるようだ。 道路の呼び名などは、地図に落としたので、ここでは省略。 <場所による田の善し悪し> 玄界灘に面したあたりの土地を、「そとめ」といい、日当たりがよく、谷地なので、よい米がれる場所である。具体的には、山の神、大納所などの棚田が、よい田んぼだそうだ。 また、「そとめ」に吹く南風のことを、「はえんかぜ」と呼び、この風が吹くとき、「そとめ」は、荒れることが多いそうだ。しかし、もっとも荒れるのは、西風のときだという。「はえん」という言葉を使っているのは、この地方だけではなく、沖縄、長崎もだそうだ。 <歴史的事実> 豊臣秀吉が、朝鮮征伐を行ったとき、遠見丘の晩所で、のろしを上げて、ちんぜい町の名古屋城へ知らせる役目をしていた。名古屋城跡は現在も残っている。遠見岳まで連れていってもらえたのだが、小高い丘というかんじで、中継点には、確かにちょうどよさそうであった。天気のいい日には、福岡の方まで見えたり、朝鮮半島もぽんやりみえることがあるそうだ。 <小字の呼び方> 漢字表記と実際の呼び名が異なっているものを、記しておく。 大久保(ううくぽ)、大納所(ううのうさ)、大崎(ううざき)、山ノ神(やまんかみ)、宮ノ岳(みやんたけ)、馬渡(もうたし)、連坂(ううざか)、原(はる)、太良(じゃ−ら)、勝山(かちやま)、西ノ川(にしんこ) 話者;井上茂さん 昭和9年生まれ 井上スミエさん 昭和11年生まれ 駄竹編 2時前頃に井上茂さん宅をお暇して駄竹へ向かった。手紙を出していた井上秀治さんは忙しいということで、道ばたにいる人に聞こうということになり、海への道を下りながら人を探した。途中で一人のおばあさんに出会い、まずお話を聞いた。おばあさんは快く「しこ名」を教えてくれた。しかし、はじめ私たち自身が自分たちの現在位置が分からず、手間取った。 駄竹から肥前町の町長さんが出た。 駄竹はどうやら釣り場所として良いらしく、福岡などからもつりに来る人がいるらしい新聞にも載った事があるらしい。しこ名は、このあたりにはたくさんあるそうだ。聞いていくと、家が込み合って建っていて、しかもひとつのしこ名を共有する家の軒数がそれぞれとても少ないので、本当にそうである事が分かった。 話者;女性、昭和3年生まれ (名前は教えてもらえなかった) 一通り知っているだけのしこ名をうかがったあと、海沿いに家が並んでいるほうへ行けば、もっと詳しい人がいるよという事で、おばあさんにお礼を言ってから海のほうへ行った。海沿いのアスフアルトの道を歩いていると、家の入り口でおしゃべりをしている3人の男の人を見かけた。近寄っていくと、何のセールスかい?と聞かれて少し戸惑った。しかし、大学の授業であざななどを調べていると言うと、楽しそうに教えてくださった。今日は海がしけっているので漁に出られなく、ひまだったらしい。 以下聞いた話 駄竹は、半農半漁のまちで、専漁の家は、10軒程度である。 <漁業について> とれるもの; 9月〜2(1)月 だしじゃこ(いりこ)漁。ピークは10月 他の時期は、とれても商品価値がない。6船団で、でて漁をする。年に2〜3億ほどの水揚げになる。とった後は天日干し。 3月〜9月 たいあみ。3月などいりこが産卵時期なのでいりこ漁ができないため。 この2つの漁が、主な収入源。 鯨はとれないがイルカがとれる。昔は、白いイルカがとれた。イルカ網の網は、わらで編まれていた。イルカがきたり、いりこがきたりするとすぐに、魚群探知機に映るので特に連絡方法はない。昔、そういう機械が無かったころでも、大群がくる時期というのは分かっていたので、特に連絡方法はなかった。 <農業について> 棚田を作ってコシヒカリを生産している。早場米で作っているので、見渡すとどの田んぼもすでに緑がそよいでいた。 <風習> 毎年8月15日(お盆)に、精霊船をつくって、海に出す。 精霊船;むぎのわらで編んだ長さ5〜6メートルのものを、部落中で3隻造る。(麦のわらで編むのは、むぎのわらは中が空洞になっているため)52〜53軒のものをのせて、沖へ出る。 前まで中学生がこの船をこいでいたが、この日はなしをきいた、53年生まれの方(早生まれ)の年が最後となり、今は、村の役員の方たちが漕いでいるということだ。精霊船には、テントをはって寝泊まりすることができる。むかしはただでそれをできたが、現在はお金を取るそうだ。ちなみに、その53年生まれの方が乗ったとき、沖で船が燃え出して、その方は海に飛び込んだそうだ。 このあたりの海岸線では、どこの部落でも精霊船の習慣はある。駄竹ではすべてむぎの船だが、初盆の家だけ木の船だという地域もある。フェリーで引っ張ってもらっている地域もある。 駄竹は忙しい所である。「駄竹から嫁をもらっても、駄竹に嫁をやるな」といわれてきた地区で、この言葉がそのことを表している。段取りよく仕事をこなさなければならないし、娘にそんな苦労をかけさせたくないという親心からであろう。ただし、忙しいだけ儲けも多い。綱元の家などは、3億ぐらい金があるだろう、と話してくれた方はいっていた。 テレビの取材が何回か来たこともあるという。先に述べた通り、つり場所としても結構にぎわっており、ピーク時には駐車場に車がおけなくなるくらいになる。 /話者;男、昭和30年生まれ 昭和53年生まれ 昭和16年生まれ <しこ名について> 小字松ノ木のうちに、1かしや 大山のうちに、2とうふや 3さんしょうどう(三省堂) 4なか 逢坂のうちに、5こうじや 6とうきょう 7すや 9おおざこ 馬渡のうちに、10やまみち 11うしろくぼ 12かまぶた 13つじ 14つじのやま 辻のうちに、 15いしばし 16こやま 原のうちに、 17ひやみず(冷水) 長田のうちに、18ばんどころ 福田のうちに、8かじや 曲辻のうちに、19たけやま 20まがり 21まがりつじ 22にしかど 馬場のうちに、25こうば 26がらんどう 27むた 28たぶがわ 横山のうちに、24かじ 29どじょうびゃく 下場のうちに、37たんした(田下) 太良のうちに、23かみだいら 西ノ川のうちに、30やしき 山浦のうちに、31むる 花ノ木のうちに、32なえもち(にゃあもち) 勝山のうちに、38さやんした 平田のうちに、39はたけなか 40ほんめ 41がた 42かけばた 43かわんはた 45ひらた 46ふろや 47たんなか 桐ノ木のうちに、44なや 48やどや 49かまえ <道の呼び名について> 小字逢坂のうちに、33うどん坂 福田と太田の境目に、34まえらんでー(「でー」は、田か手のどちらかの字) 芝生と松ノ木の境目に、35かしやんで− 太良のうちに、3、6したやま レポートを作成した感想 佐賀に行って一番感じたことは、地元の人のあたたかさである。みんな親切に質問に答えてくれたし、ただ迷惑を掛けている私たちを、とても歓迎してくれた。 地元に行って、調査を行っているうちに、先生がなぜこのような調査を行っているかが分かったような気がした。わたしも調べたことを、きちんと残したいと思ったからだ。 納所の方では本当にしこ名は消えゆく地名という印象をうけたが、駄竹ではまだまだ生きていた。ずっと残っていけばよいと思うが、やはりいつか廃れてしまうのだろうか。残していくことは大事だと思った一日だった。 |