歩き、み、ふれる歴史学

19986  松枝・福山

○調査日時 6月27日()

○調査場所 納所東・入口・中

1日の行動記録

1040 納所支所につく

1100 区長さん(中山正義さん)に話を聞く

1230 納所小学校で昼食

1250 支所で昔の様子に詳しい宮崎さんを探すが見つからず

1300 井上義富さんに話を聞く

1500 聞いたことをまとめる

 

○小字

太良(ジャーラ)見瀬(キヤーゼ)、乳母田(ウパダ)芝生(シパオ)、

速見山(番所ともいう←昔朝鮮が攻めてきた時の番の意味から)、大崎(ウーサキ)、福浦(フクラ)、桑木田(カノキダ)、小南目里(コナメリ)、西ノ川(ニシノコウ)、押川(オシゴ)、神ノ前(ミヤンマエ)

駄竹(だちく)部落 … 桐ノ木+平田+勝山

菖津(しょうづ)部落 … 船唐津(フナトウヅ)+鎮守山+平瀬

※下場には部落はなく、横山にある。

※木場田(コバンタ)と押川の間に柳田(ヤナイダ)がある。

村筋―太田、福田、花ノ木、入口、松ノ本

(村中:村の中心地)

境目はそこの谷を中心とした名で呼ぶことがある。(アカツチなど)

また、字違いでも区画に入っていれば隣の字と同じように呼ぶこともある。

牧ノ地の上部は西ノ川

八ノ久保の半分は黒河原

殿畑の半分は今泊(コンドマリ) と呼ぶ。

●しこ名について

「しこ名」のことを聞いてみたところ、この周辺ではしこ名というのはその人の特徴などからあだ名のようにして人につけられた名のことであるらしい。その人が耕す田をそのままそのままその耕作者の「しこ名」で呼ぶこともあった。しかし今では田の名前は小字の名をそのまま使うことが多いという。

●田の特徴

田と自然

この域は海と山両方に接するところであるため、大音から人が海の魚や山の木の美、いきものを狩猟して生活していたと考えられる。これは付近で黒曜石や甕棺が見つかることからも分かる。今も溝や山の食べ物が豊富にある点は変わらず、不自由する点はほとんどないという。

松ノ本付近には昔(S2030年代ころまで)粘土質の湿田があり、脚の付け根まで泥につかることもあった。このような田では、大人が作業をするよりもかえって体の軽い子供を入れたままのほうが沈むことがなくよかったらしい。また、昔は松浦川などの大きな川から離れた地区では川の水を引くことができなかったため、梅雨時の雨が田に溜まるのを待ってから田植えをしていた。このため、田植えが6月下旬になることも多かった。

このように、田の灌漑設備が整っていなかったこともあり、10年ほど前までは畑の収穫の方がよかったという。昔は旱魃や大水によって被害を受けることも多く、そのときは共済組合から被害金が出ていた。現在は松浦川の水を貯水槽に溜めてポンプで各田に水を引く設備ができ、水が枯れやすい地域にも水がいくようになった。スプリンクラー装置も付けられ、今では旱魃がきても十分対応できるようになっている。

 

○収穫と祭り

この地域では親戚どうしで田植えの応援(手伝い)をしあい、そのお礼として赤飯や魚、酒などをごちそうしていたという。山の斜面を切り開いた小さな田であったため、機械が入らずに人手がいったのだ。今ではこのような加勢のしあいも少なくなってきているが、地区によってはまだ残っているところもある。

祭式としては、旧暦11月のはじめの日に行う田ノ神祭がある。これは、田ごとに神様を祭っているもので、収穫の際45束の稲を残しておき、その米で餅をついたりおこわをたいたりして「田ノ神さん」にお供えするものである。

家には荒神さまがあり、米が6升も炊けるという大きなかまどのところに火の神様として祀られている。この神様には毎日水(祝い事のときなどは酒)をお供えしているという。

また、「田ノ神さん」(舅)と「荒神さん」(女)は夫婦であると言い伝えられている。

昔の百姓は、米は作ってもその大部分は年貢として取られていたので、めったに白米を食べることはできなかった。そのため、何か祝い事のときには6升炊けるかまどでお米を炊き、たくさん白米を食べていた。これらの祭式も今では薄れつつあるという。先祖代々行われてきたこの伝統をいつまでも受け継いでいってもらいたいものだ。

 

<牛一昔の運搬作業>

終戦当時まで、田畑の作物の収穫や運搬は非常に重労働なものであり、牛は大切な労働力であったことは言うまでもない。収穣した稲を運ぶにしても、働き盛りの男で一回に6把が限度であったのに対し雌牛一回に12把、雄牛になると18把も運べたというから、牛あっての運搬作業とも言えるだろう。井上さんの話によると、住居の馬場口と、作場である荒崎(この一帯は、むく島がすぐ近くに見えるので、むく島の前ん方」というらしい)との間を収穫時にはあしなか(泥がはねないように草履を短くしたようなもの)を履いて、人が背中で担いだり牛に運ばせたりして往復したという。しかしそれでも一当時最大の労働力である牛をしても一朝6時に家を出て、午前中に牛に荷をつけて2回往復できればよい方で一日に4回が限度であった。なんとか一日で運搬は終わるものの、牛の運搬速度はそれだけ遅い(つまり一往復に3時間を要する)。昔の人の苦労はいかほどか。

そして今、農業機械の導入により、牛の役割も変わった。鍬を引くのも、作物を運搬するのも、今は機械や車の役目である。今、牛は子牛を生産して売るために飼われている。機械が導入されたと言っても、今や「機械でさえも追いつかない農業」の時代であるので子牛は肉牛として飼育されている。雄は種牛、雌は育児専用が主である。そのせいで、昔は一件に12頭の牛が、今は一軒に3040頭はいるという。しかし外国製品の輪入などで、肉牛の値段は50万円から30万円ほどに下がってしまい、しかも飼料は高いので、採算が合わず、養肉業も伸び悩んでいる。

 

<道一区画整理の始まり>

昔と言えば大昔、縄文時代から、道というものは人間生活に欠かせないものであった。そもそも道は「つくる」ものではなく、「自然にできる」ものだから、その土地の地形に沿って、歩きやすい線が「道」となる。中でも少し大きい道は、今もほとんど字境として使われている道であるが、特に押川から、昔庄屋さんの家があったという松本とを結ぶ道(地図中の赤線)が、唐津のお殿様が御幸したという、本通りである。その左右にもそれぞれ西通りと兼通りというのがあり、現在でもそう呼んでいるらしい。その本通りも、終戦後までは狭く、曲がりくねっていて、ばらす(ばら炭)もしかれていない状態だったので、昭和23年頃から本格的な道の大幅改良と区画整理が姶まった。現在もエ事は続いていて、道幅も拡張中。区画整理が姶まってから、ようやく木炭車が入り込めるようになり、農作業も次第にやりやすくなったと考えられる。また、舗装工事は、本道は昭和50年から、ほかの道は昭和60年から行われたという。

 

<これからの農業>

 前に述べたように、納所東にも終戦後区画整理が行われ、車や機械が入り込めるようになってから、農業の様子も大きく変わった。農作業も、生活も、昔とは比較にならないほど便利になった。さて、便利になった分だけの時間は、一体何をできるようになったのだろうか。「体が楽になった」一確かにそれも少しあるらしいが、つまるところの答えは、「遊んだ人間はいない」ということだった(当たり前ではあるのだが)。農作業はより早くはかどるものの、外国製の安価な食料輸入にも押され、農業一本では苦しくなってきた。今は、「機械でしても追いつかない農業」の時代なのである。そこで男たちは出稼ぎに行くようになった。昭和50年代まで、冬の間は、速くでは束京まで行って働いていたという。そして

今では、ほとんどが兼業農家となっている。働き柱はいわゆる日曜百姓で、休日や、残業のない日の夕方5時から8時まで、農家の仕事をする。連休などには田植えをするらしい。「体が楽になった」とはいえ、ゆとりのある時間がもてるようになったということではないようだ。納所東も、滅反政策以来、不便な土地の耕作放棄(=荒れ)が増えたという。井上さんは、「これ以上この村が荒れてほしくはない」と切実にお話くださった。

 

調査した鳩所;佐賀県肥前町納所東

  話者;中山正義区長(昭和2年生まれ)

     井上義富さん(大正15年生まれ)

 

聞き手;松枝かおり1LT98139

福山二葉 1LT98132

 

調査した日;平成10627日(土)

☆最後に

現地調査を終えて

見知らぬ土地に調査に行くということは今までほとんどなかったので、はじめは緊張の連続でした。事前に電話でアポをとるのにも勇気がいりました。しかし、実際に現地に調査に行ってみると、みんな温かい人たちばかりで、突然訪問した私たちを快く、親切に受け入れてくださいました。特に2人目に話をうかがった井上義富さんは、「せっかく来てくれたのだから」と、肥前町の歴史だけでなく、今までの体験談を話してくださいました。「夫婦とはどうあるべきか」とか、戦争の話をしてもらいましたが、中でも印象に残ったのは戦争の話でした。

義富さんも兵隊となって宮崎にいたそうですが、訓練中に上司に殴られるということがよくあったといいます。戦争を知らない私たちには異常に思えることでも、戦争中はそれが当たり前になっていたため、どんなことをされても何の疑問も抱かず、ただただお国のために戦いたいと思っていたそうです。「だから時代は怖いんだよ」と義富さんは話してくださいました。そんな体験をしたとはとても思えない義富さんの穏やかな笑顔は、戦争を経験した人間的な大きさから作られているのかもしれないと思いました。

肥前町に調査に行って、人の温かさにふれ、そこの歴史だけでなく、何か人間として大切なことを学んだような気がします。そういう意味でも、今回の現地調査は色々なことを考えるいい機会となり、とてもよかったと思います。

 



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