馬場口、山口の調査

調査者

1EC98036S 香月真

IAG98206T 外園智史

情報提供者

肥前町 納所東 井上 仁八郎氏

他 納所東の住民

●納所は大きく東と西に分かれており、それぞれ大きく五つの部落からなるらしい。

納所東…通山、中組、入口、山口、馬場口

納所西…馬渡、苗代田、原、神田代、下場

● しこ名一覧

 田畑、家、山

 小字 馬場口のうちに コウバ(高場)、ムタ、シンヤ(新家)、ホンヤ(本家)、ヤシキ(屋敷)  

山中のうちに  タンノキ、ニシムコウダ(西向田)

遠見岳のうちに ハギノサコ、バンドコロ(番所)

牧ノ字のうちに カワムコウ(川向こう)

苗代田あたりの山 マタテヤマ(馬立山)

 

海岸、岬

小字 小南目里のうちに オオナメ(大波)、コナメ(小波)

   屋形石のうちに  ガメセ

   大崎のうちに   ドデンワラ

   長崎のうちに   ナガサキバナ(長崎鼻)

   山ノ下のうちに  アマゴ

   魚釣田のうちに  マルセ

   八ノ久保のうちに シライワ(白岩)

小字 馬場口のうちに タニカワセン(谷川線)

   下場のうちに  ダジクセン(駄竹線)

  県道納所・入野線のことを トオリヤマセン(通山線)

村の水利

唐津、松浦川から水を引いてくる。

水争い

 早魅時、駄竹と浦ノ田川の水を争う。死活問題となるのでルールなどといっていられない。さらに梅雨時など水が多すぎるときにもかってにせき止めて自分の田に水が入りすぎないようにしたりする。これをされると他の田に水が流れ込みすぎてその田が流れてしまったりする。せまい地域内での事なのでなるべく事を荒立てないように始末するらしい。

 ちなみに4年前の大早魅では馬場口ではほぼ全滅したらしい。大丈夫だったのは浦ノ田川のわずかな周辺と、フケ田の苗代田のあたりだけだったそうだ。

 

村の耕地

良田…浦ノ田、苗代田

悪田…入口

 

名産品

富貴坂、魚釣田、貝瀬沖…サザエの養殖

京泊沖…サザエ、アワビの養殖

綾崎沖…サザエ(昔は素もぐりで人気だった)

野稲畑、山中…タバコ

 

米の保存

(井上家では)

玄関に幅4メートル、奥行き1メートル、高さ2メートルの大きな木製の櫃があり、その中に米を玄米の状態で保存していた。足りないときはドラム缶に入れていたらしい。もみがらは畑の肥料となった。

 

村のこれから

最近では、ほとんどの家が兼業農家で農業だけで生計を立てているところはほとんどないらしい。けして農業に向いた土地とはいえないので安定した収入が得にくく、またそもそもそれほど大きな田畑を持つ人は少ない。若い世代の人も農業を嫌っている人が多い。ビニールハウスでイチゴなどを作っている人だけが、農業収入に頼れるようだ。

 また馬場口のあたりで深刻な問題となっていることがもう一つある。それはここ十数年馬場口で結婚した人がいないということだ。嫁に行ったり、町に出て結婚する人はいるが、馬場口で新たに家庭を作る人がいないということだ。このせいで馬場口では子供の姿を見ることがほとんどない。このままだとごく近い将来、空家や放置された田畑が急増し村が荒れてしまうだろうと予想される。

 主に上記の二点がこれからの村の課題であり、それは村の死活に直結する。

 

一日の行動

0830 出発

1000 パーキングエリアにて休憩

1115 現地到着

1130 井上 仁八郎氏宅訪問

1245 辞去

1315 中山健一氏宅訪間

1350 辞去 このあと他の近所の人から話をうかがう。

1530 調査終了

1600 帰宅のバスに乗り込む

 

感想

 香月 真

 今回の授業で学んだことは、とても大きかったように思う。現地の人の優しさや、ひたむきさに触れることができた。話を聞く予定だった中山健一さんが不在で仕方なく、近所の人たちに話を聞いたが何の連絡もない突然の訪問にもかかわらず僕達のために親身になっていろいろな情報を教えてくれた。また僕も農村地帯の生まれであり将来大学生が僕のところに聞きにくることがあるのだろうかとおもった。もしそうなら、僕も地元の事についてもっと詳しく知っておかねばならないと思った。昔からの伝統や文化は僕達の手により次の世代へ渡されるのだと再認識した。

 外園 智史

 「歩き、見、触れる」というタイトルにひかれてとった授業だったが、実際佐賀に行ってみて「触れる」ことができてよかったと思う。二件目の家で思うように情報収集ができなくて仕方がないから飛込みで付近の方に質問をして回ったが、みんな今までの僕にはちょっと考えられないほど親切で驚いた。突然訪れた僕らを胡散くさがらずに親切にしてくれたあたりが、都市と村の差なのかもしれないと思った。僕にとってこの調査は、歴史的な意義よりも「人」とのふれあいを感じるという意味でとても大きなものとなった。



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