佐賀県唐津市肥前町新木場・八折栄 1LT98138■ 本田幸子 1LT98160■ 山下佳子 1LT98164■ 吉岡澄江 はじめに・・・ 今回、初めて現地調査なるものに参加させてもらって、いろいろと学ぶものもありました。話をしてくださったみなさんは、とてもあたたかく見ず知らずの私たちを快く迎えてくださいました。お土産に持っていった「いも九」も大好評でした。収穫は少なかったし、トラブルもありましたが、みなさんの協力のおかげで、レポートを書けることをありがたく思います。聞きたいことの半分も、調査できなかったような気もしますが、とりあえず四苦八苦してみました。 もくじ ・1日の行動記録 ・新木場(上場)について ・八折栄について 〈1日の行動記録〉 am 8:15 六本松集合 8:30 出発 9:50 休憩(おさかな村) 10:35 目的地(新木場)到着 11:00 集会所にて山口三男さんにお話を伺う 12:00 昼食 12:20 新木場にて聞き込み調査 1人、老人方に連絡をとってもらったが、他のグループの2人組が誤って私たちの地区を聞き込んでいたらしく、「もう話したし、忙しいから。」と断られてしまった。 13:40 八折栄に到着 14:00 川口弘海さん宅にて、はるえさんにお話を伺う 14:30 牛舎の方に連れて行ってもらい、川口弘海さんにお話を伺う 15:00 椎葉さんに畑でお話を伺う 16:20 バス到着 18:20 六本松到着、帰宅 〈新木場〉話者:山口三男さん(大正12年生まれ) 小字 上場のうちに・・・ホトケダ、ウシロヤマ、マツヤマ @ 村の農業の変遷 昔の水田でとれるもの・・・米/麦・いも(裏作) 昔の畑でとれるもの・・・大豆、麦(主に戦時中) 湿田:乾田=3:7の割合 収穫された米は自宅用として籾で貯蔵していたが、調整施設センターができてからは、すべて籾をとって貯蔵する人もでてきた。センターができる以前(戦前〜戦後にかけて)は、籾すりを共同で行っていた。 昭和30年ころまでは360〜400kgの米の生産量だったが、昭和31年からコシヒカリなどの東北品種を使って新木場で最初に早期栽培を試みる。生産は480〜500kgに増した。現在は100%東北品種を使用している。 早期栽培は、最初1ヘクタールから始められ、4月下旬〜5月に田植え、8月に収穫。台風をさけることと、水は天水に頼るため水不足をカバーすることが可能になった。 (現在の生産物) 収入源としての中心は米 昔は春馬鈴薯のみだったのが、昭和26年に秋馬鈴薯、冬馬鈴薯(12月ころ植えて、4月ころ収穫)が入ってきて、収入源となっていたが、そうか病の影響を受け、現在ではだいぶ減少した。 昔なかった作物で現在あるものはイチゴ、ハウスみかん。みかんは戦時中、村で4〜5人しか栽培していなかったが、その後増加。昭和50年ころにピークに達し、それからは減少している。他にも花(ユリ、キクなど)の切花も盛んに出荷されている。 (昔の生産物) 昔から今も作られているのが、葉タバコ。歴史は古く、戦前からあったらしい。蚕は10年くらい前まではあったが、今はまったくない。スイカ、ウリも昔は栽培していたが、今は減少してしまった。麦も今は栽培していない。戦時中は米と麦の栽培が主。食糧難ではあったが、闇市で米などを売り、金儲けした人もいた。アルコール(お酒)を密造した人もいる。 終戦頃までは牛馬耕のため牛を2〜3頭飼っていた。耕運機によって今は減少。ただし、肉用の牛は現在でも飼っている家が数軒ある。 (肥料) 現在・・・化学肥料がほとんどを占める。 昔・・・草・海藻類など。 (農家分別の割合) 百姓とサラリーマンを兼ねる兼業農家の割合がかなりの高さを占める。世帯数85世帯に対し、農家は60世帯。ただし専業農家は数軒しか存在しない。専業農家はみかん、米などを栽培。 (農業用水) 明治以前は、溜池が少ない。→昭和のはじめころの土地改良で作られたものが多い。溜池が少ないころは天水のみを頼りにしていた。(停水、遊水)現在、おおよそ周囲の4つの溜池からと小さな川を使って農業用水としている。なお、水争いなどが、特別発生したことはなかったらしい。旱魃のときも一応溜池(現ダム)の水でまかなえたとのこと。 瀬と川の水が一緒になるところで、塩が流れ込み、田に塩害が起こらぬようにするため、「シオアソビ」があった。塩が入ってこないように塩が流れ入るところにフタをすることを指す。梅崎など新しく水田を開いたところで活用された。 水路の名前は主にその水路の源である溜池の名をそのままとって呼んでいる。 堀は特にないらしい。 2, 村における生活の移り変わり (1994年の旱魃時) 飲料水のみ時間給水→小規模の水道を作り生活用水に (村内における交流) 昔は神主によって夏と正月の2回豊作を祈る祈願が行われていたが現在では捨てれつつある。 また、敬老会、母の日、子供の日と年3回集会所において集まっていたが、今では年1回に統合された。 区民による体育大会も老人のみでゲートボールやグラウンドゴルフなどに変わった。 (村外との交流) 終戦頃までは葬式のとき、隣村と協力していた。火葬が一般的になってからはその必要もなくなった。また、豆腐を作るために大豆を引いたりするのも隣村との協力のもとに行われていたが、機械化がすすみ、今では村同士のつながりは希薄化している。 3, 道路の変遷 現在の国道204号線は以前県道であった。およそ昭和30〜40年ごろに国道に指定されたらしい。道の通っている場所はほとんどが変わりがない。アスファルトに舗装されてからは、交通量は著しく増加した。 (藩主が唐津藩の小笠原であるため、生活の様子は玄海町と酷似しているらしい。) 〈八折栄〉話者:川口弘海さん(昭和17年生まれ) 1,八折栄の開拓 八折栄は比較的最近(戦後40〜50年前)開拓された土地である。そのため、あまり古い地名や伝統の類は存在しないようだ。開拓には@ほかの地方から移り住んでくる。A周辺の村落(八折栄で言えば主に新木場あたり)の農家の次男・三男が開拓して住む。 という二つの場合があるが、八折栄ではAの例が顕著とのことだ。 2, 八折栄の農業 この村落では専業農家が2〜3軒しかない。また水田もなく畑にイモ、ジャガイモ、豆などを栽培している。牛も2,3頭飼っている。 お話を伺った川口さんの家は兼業農家で農業のかたわら石屋を営んでいる。 3, 水源の確保 松浦川→後川内ダム→上倉ダムという流れで水を確保している。上倉ダムの水は農業用水のためだけに使用されるため、旱魃時にも使えなかった。上場台地は水が少ないので旱魃の際にはボーリングで生活用水を確保した。 4, 集落内外のつながり (集落内) 新年会:男(=家の当主)のみで集まる。 花見:4月の第1日曜日。20年頃前までは全員参加だったが、今では老人会のみ。 モグラウチ:1月4日に子供がもちやお金をもらう。今では全く見られない。 (集落外) 全く個人的な付き合いしかない 5, 村落の変化 現国道は舗装されていない「バラス道」だった。今よりもさらに家屋数は少なく、山などを少し切り崩したりした。 おわりに・・・ 現地調査で貴重な体験をさせていただいたことを心から感謝して終わりにしたいと思います。ありがとうございました。 |