佐賀県肥前町切木村における現地調査 ・切木でよく見られる名字「出(いで)」は、日本でもめずらしく他の地域では見られない。朝鮮から来たのではないかと言っていた。 ・切木にはそんなに大きな祭りはなく、神社に参拝する春祭り秋祭り、人を家に呼んでごちそうする切木くんちなどしかない。 ・昔は小麦などを裏作として作っていたが、今はほとんど麦を作れるような田はなくなった。 ・電気が通ったのは大正11年で、ちょうど私達が話を聞いた出信義さんと出勝実さんが生まれた年だった。ガスが通ったのは戦後間もない頃のことだ。 ・昔は農耕用として牛や馬を飼っている農家がほとんどだった。その割合は、牛:馬=7:3だった。しかし大型農耕用機械の導入で、今となってはほとんどしいくしていない。 ・昔農協ができるまでは、作ったものは自分達でたべていた。もみのまま保存して、食べる時に脱穀して玄米にするのがおいしいらしい。 ・おじいさん達が若い頃は、一日最低四回は御飯を食べていた。朝3時頃起きて草刈りをする。そして6時頃に朝食、10時頃に昼食、2時半頃にまた食事(?食)をして夜7時頃に帰宅、8時か9時に夕食をとり、その後牛馬にえさを与えていた。 ・現時点では村おこしのための画期的な構想はないそうだ。昔から切木はゆったりとした村で、そんなに貧富の差はなかった。
・今はほとんどの家が兼業農家で、全90件中4、5件しか専業農家はない。昔は60件中50件くらいは専業農家だった。今、兼業農家の人の多くは役場などで働く公務員が多いようだ。 ・昔若者は青年宿という所に集まって寝泊りをしていた。しかしそこで知り合った男女が恋愛結婚をすることはほとんどなく、大体が親の紹介によるお見合い結婚だった。 ・昭和19年に建てられた中学校は昭和21年に火災が起こり今の校舎は3度目であるらしい。現在、中学校の生徒数は約93名、小学校の生徒数は約200である。 ・切木の人口は私達が予想していたのとは反対に増加していた。 ・昔は川にたくさんの魚がおよいでいたが(なまずなどもいた)、整備した結果今では魚の姿は見られなくなった。
切木ぼたん伝説 およそ400年前、豊臣秀吉がはるか大陸への進出を企てた頃、この地方を治めていた波多三河守親は、出兵に際して秀吉からいわれのない怒りをかい、関東筑波山に流されてしまいました。その後、波多氏の居城岸岳城を訪れた波多家の家臣が城跡に咲く一株の可憐なぼたんを見つけ、切木村に持ち帰り大事に育てました。このぼたんは、波多氏の知人で松浦党の塚本三鉄が明国から持ち帰り波多氏に贈ったものと言われ、波多氏の夫人秀の前がことのほかかわいがっていたと伝えられています。 その後、切木村の出家で代々大切に育てられ、春になるとその庭先に大輪の花を咲かせ続けています。
現地調査にあたりお世話になった方々(敬称略) ・出進(元町会議委員長)大正9年生まれ、80歳 ・出信義(老人組合会長)大正10年生まれ、79歳 ・出勝美 大正10年生まれ、79歳 ・柴田清治 ・川添静雄 ・出久子 ・柴田 アヤ子 (ほか老人組合の方々多数) ・山口徳治 |