【唐津市肥前町阿漕】 歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート 1EC98055 栗田勇輝 1EC98071 佐田祐介
村の名前:肥前町阿漕 話者:坂本五郎さん(昭和2年3月生まれ) 坂本マスエさん(大正15年4月生まれ) 調査日:1998年6月27日(土)
*しこ名について* 阿漕にはしこ名はなく、田の名前は所有者の名前を用いて呼ぶそうだ。 阿漕へ続く道のそばにあった段々になった田んぼは、上ヶ倉や瓜ヶ坂の範囲に入るということだった。
*阿漕の昔* 阿漕は昔、炭坑であったということだった。しかし昭和27年11月に閉山した。一時は十数軒あった村も閉山とともにだんだん減っていき、今ではたった3軒となってしまった。 昭和33年に電気が通じる。それまではカンテラを使っていた。 昭和48年頃、電話が使用できるようになる。 昭和49年にそれまで農道だった道が、町道に変更となる。それまでは舗装されておらず、子供たちは田野小学校に山道を通って、通っていた。川は石を置いてその上を飛び跳ねて渡ったそうだ。 水道は現在もなく、坂本さん一家は山の上のほうにある、炭坑があった時に使用していた水源を掘り返して、そこから家まで水を引いてこして使用している。ほかの家もそれぞれ水を引いているそうだ。
*地図作り* 辺境の地であったため、地図が途中で切れているという事態が最初に起こった。 他の地図もあまり詳しくなく、地図作りには相当苦労した。地図が古いため、道が結構変わっていた。 本屋で探そうとしたが、適当な地図が見つからなかった。
*当日の行動記録* 8:15 九大六本松キャンパス 正門集合 8:30 九大出発 10:30 新木場到着 早速行く道がわからず困る 11:00 上ヶ倉担当の2人と山道を抜けるために一緒に行動する 11:45 櫛田神社境内で昼食を取る 12:00 1つめの山を無事抜け、田野小学校に到着 12:30 彼らと別れ阿漕への山道に入る(入ったつもりだった) 13:00 林の間から田野小学校あたりの風景が見え、道を間違えたことに気がつく 13:40 今度こそ正しい道に入る 13:45 なかなか着かないため道を間違ったのではないかと思い、ちょっと前に見かけた人に聞いてみる 結局その道は正しかった 14:00 阿漕到着 坂本夫人が出迎えてくださる 14:05 しこ名がないと知り失望するが、親切な2人は知っていることをできるかぎり教えてくださる 14:30 取材終了 坂本夫妻の見送りのもと晴れ晴れとした気分で阿漕を去る 15:45 思っていたより早く新木場に到着 16:15 バスが予定時間通りに来る バスに乗り旅の疲れを癒す(就寝) 17:20 六木松に到着 解散
#これ以上取材内容がないので(理由は感想のところで)、坂本さん夫妻が話してくださったお二人の昔のことについて書くことにします。
昭和27年、炭坑の閉山とともに高串から阿漕に移ってきた。 五郎さんは船大工であったので、山の中では船は造れないため、海岸沿いの阿漕に来た。 昭和50年、坂本さんの家は火事で全焼。その後立て直した。 いつかは覚えていないらしいが、道路をつくったとき村の人間が駆り出されて、手伝ったそうだ。(終)
《感想》 まず、阿漕に辿り着くまでが試練だった。 バスから降ろされ、とりあえず山のほうに入ってみた。 地図に山道が載っていないため、最初は勘を頼りに進んだ。そもそもこれが間違いだったのだ。 それから30分ほど歩き、行き止まりに突き当たった。何度も獣道に入って山を抜け出そうとしたが、無駄だった。 しょうがなく一つ一つ分岐点に戻り、しらみつぶしに道に入っていった。途中で上ヶ倉に行く2人と出会い、一緒に山を出ようとした。農作業をしている人に道を聞いたが、それでも間違えてしまい、またさまよった。 そして30分後、なんと最初の分岐点で間違えていたということが判明した。僕たちは山を抜け、爽やかな気分で下山した。途中の神社でマニュアル通りに昼食をとった。 やっと町に出た。地図と道が照らし合わさったので、僕たちは心配することなく進んだ。 そうするうちに、上ヶ倉に行く二人と別れるべき分岐点についた。 |