現地調査(佐賀県肥前町)              平成十一年七月十日

赤坂地区

○しこ名一覧

 ・小字戸佐木場(とさこば)のうちに

    ソラミネ、オクノコバ

 ・小字古賀峯(こがみね)のうちに

    ムジナ、ナカンギレ(ナカギレ)、カバシコバ

 ・小字山中(やまなか)のうちに

    コプケ、オニコロシ、テイシゴ、ワタウチ

 ・小字丸尾(まるお)のうちに

    マエダ、ヒキジ

 ・小字赤坂(あかさか)、太田(おおた)、反ノ木(たんのき)では

    しこ名は存在せず、小字のままで呼ばれていた。

○村の名前(シュウジの名前)

 小字赤坂では、マトバ・バンド、小字丸尾では、ヒキジ・ソウゼンバリ、

 小字戸佐木場では、ボンギ、という名前があったが、他の小字ではなかった。

○村の水利

 水田には、湧水と座川の水のみを利用しており、この地区にある溜池の水は中浦地区の水田に利用されていた。湧水は、上から下へしか流れないため、雨の少ない年は下の方が干からびて使えなかった。現在は、ポンプが利用され下から上への水の移動が可能になり便利になった。さらに灌漑のために戸佐木場に赤坂ダムの建設を試みたが、ダムを作ることによって今まで湧水していた所が湧水しなくなるというような水脈の乱れが起こった。そのために、工事を二、三年中断し、ボーリング調査や水脈層にコンクリートを流したりして対応した。諸岡さん曰く、本当にダムはできてよかったのだろうかと、疑問を抱いていたようだった。

 他の村と共有している用水源は無く、昔から水争いは無かった。

 

○村の耕地

 乾田がほとんどであり、湿田はほんの一部であった。その湿田も昭和十五年に排水(手でくみ上げる作業)をして乾田にした。

 同じ田でも良田、悪田があり、岩場や急な斜面などで耕作面積が狭かったり、引水が困難な場所などは悪田であった。良田は品質の良い米が多く取れた。

 

○村の発達

 電気は昭和二十二、三年ごろから使われだした。それまでは灯油のランプを使用していた。プロパンガスは昭和三十五年過ぎ頃から使われ、その前は薪を利用して、米や風呂もすべてたいていた。薪は山で木を切ってきて、それを乾かして薪にして使用していて、売り買いは全くなかったそうだ。

 

○米の保存

 米は二十五年前から農協に出しており、それ以前は水車で精米し唐津へ行き売っていた。昭和三十年ごろまで畑で収穫した麦を米と混ぜ合わせて食べていた。食事における米と麦の割合は、昔から現在への流れとして、3755100と今では麦をそのまま食べることはない。あと戦前、戦時中には、さつまいもが重宝されており、さつまいもを食べることで、生きのびたこともあったそうだ。

 米の保存法として、‘‘せこ,,と呼ばれる木の枠で作った箱を納屋の横に置いて使用していた。‘‘せこ”は上からのみ入れ、下からのみ出していた。また‘‘かまぎ’’と呼ばれるわらで編んだ袋(60kgまで入れることができた)を保存のために使っていた。ねずみを避けるために、たねもみを袋に入れ天井から吊るしていた。

 

○村の動物

 牛は一家に一頭、雌牛を飼っていて、農耕用だった。馬は、村に二頭いたそうです。博労はいなかった。

○村の道

 昔は道幅が狭く、人と牛が通れるぐらいであった。玄武岩が風化してできた赤土の道で、雨が降るとグチュグチュになって通れなくなっていた。今回伺った住職さんは「昔は中学校(現高等学校)までの距離が三里半あった。自転車で毎日その道を通っていた。雨が降ったら赤土のため自転車も普通に錆びるのではなく赤錆だった。」とおっしゃっていた。

赤坂の‘赤,はこの赤土からきているそうだ。リアカーができる時期と同時に、道幅も広がっていった。

 塩と魚の調達方法として、塩は、隣の切木まで行って買っていた。魚は、大浦浜でとれた魚を売る行商が赤坂まで来ていた。

 

○村の祭り

 年に五、六回ほど行われていた。祭りのことを‘おこもり’と呼んでおり、おこもりにくるみなさんがそれぞれ鉢盛りやお酒を持ってきて楽しんでいたそうだ。具体的に祭りの名前をあげると、おひまち(1020日)、二十六やまち(826日)、おいせこ、彼岸ごもり(春・秋)などで、前のこつが成人男性のみ参加で、後のこつが家族で参加。

 

○昔の若者

 テレビも映画もなかった時代、娯楽としては、数多くはないのだが、それなりにイべントはあった。公民館に夜みんなで泊まりに行ったり、芝居が地域ごとにまわってくるのを見に行ったりしていた。しかし基本的には家の農作業の手伝いがほとんどで、学校から帰ってくるとすぐに手伝いをしていた。収穫などの忙しい時期になると、学校自体が休みになり家の手伝いを率先していた。

 

今回この調査にご協力頂いた赤坂地区の皆様

・諸岡孝英さん;大正7

・諸岡英光さん;昭和5

・諸岡直子さん;昭和18

・諸岡和久さん;昭和35

 

中浦地区

○しこ名一覧

 ・小字石坂(いしさか)のうちに

    テラヤシキ

 ・小字光月(こうげつ)のうちに

   トノヤシキ、イデンシモ

 ・小字浦ノ田(うらのた)のうちに

    キトウラ、イワタニ

 ・小字柿ノ木(かきのき)のうちに

    イタビ(中浦発祥の地)

・小字前田(まえだ)のうちに

  エイキン

・小字池ノ山(いけのやま)のうちに

 ナンゴ、カミタ

・小字八ノ久保(はちのくぼ)のうちに

 ドウゾノ

・小字古園(ふるぞの)のうちに

  ビシロ

・小字倉ノ下(くらのした)、松ノ下(まつのした)では

 しこ名は存在せず、小字のままで呼ばれていた。

シュウジの名前

・小字光月のうちに

   トノヤシキ

・小字池ノ山のうちに

   イケノヤマ

・小字松ノ下

   ウナカケ、マツノシタ

・これら以外の小字では

  特になかった。

 

○村の水利

 水田には、湧水と溜池から引水し、大部分は溜池の水を利用していた。溜池は、赤坂の小字太田にある双原上溜と切木の小字荒巻の双原下溜の水を、昔のとりきめで利用していて、このこつの溜池は、座川が氾濫したときには遊水池としての役割を果たしていた。双原上溜の水は意図的に双原下溜のほうへ移されていた。

 水田にひくための用水路は、昔は切木の小字荒巻をとおり小字八角の山すそをとおって中浦に引水していたが、現在は荒巻と八角の境界にトンネルを掘り水路拒離を1300メートルも短縮した。多くの従事者の英知と努力によって完成されたこのトンネルは、今日の中浦の稲作発展に大いに寄与している。

 

○村の耕地

 湿田は存在しなく、乾田のみだった。光月は中浦の中では良田であり、海岸沿いの岩場や斜面の急な場所では耕作や引水が困難であるので悪田だった。

 

○村の発達

 電気ははっきりしたことはわからないが、昭和初期ぐらいのことだった。プロパンガスは昭和三十五年ごろから使われたようだった。電気がくる前は灯油ランプで明かりとり

をし、プロパンガスの代わりは薪だった。薪は買ったりするようなことはなく、すべて自分たちで山に入って調達し、乾かして使っていた。

○米の保存

 米は水車で精米し、買いにくる人のために水車が米の販売所の役割を果たしていた。

また、水車での版売以外に唐津にまで売りに行っていた。

 米の保存方法は、赤坂と同じで‘‘せこ”と‘‘かまぎ’’を使っていた。

 食事における米と麦の割合は、昔から現在の流れとして73から戦後まもなく55そして現在では麦は食べられていない。

 

○村の動物

 牛は一家に二頭で、赤坂と違って雄牛を飼っていた。牛は、農耕だけでなく荷物を運んだりと、幅広く利用されていた。馬は、村にはいなかった。博労は、村に二軒あり、うわさどおり口のかなりうまい人だったようで、村の人だけでなく身内の人でさえ金儲けの対象としていた。当時、地元の人たちは「博労は、死んでも天国にはいけない。」といっていたそうだ。話を聞いた人たちの中にも、博労によって大損させられた人もたくさんおられた。

 

○村の道

 昔は道が狭く、曲がりくねった道が多かった。また今では、ほとんど使われていない。地元の人だけが知る隣村に行く道があった。古い道では、主に牛を使って生活物資を運んでおり、村にとってはライフラインだった。塩と魚の調達方法は、魚は大浦浜でとれた魚を売りにくる行商さんがきていて、それを買っていた。塩は終戦まで村に海水をたいて塩をつくる人がいてそれを買ったり、物々交換で塩を得ていた。

 

○村の祭り

 季節ごとに祭りが行われていた。

 ・ひこさん参り(四月頃)

赤坂の太田にある溜池と、大宰府にお参りに行く。お参りに行く人は、くじ引きで決められていて、それに選ばれることはかなり名誉なことだと、苦笑いしておられた。

 ・はるぎと(春)、なつぎと(夏)

 ・ひがんごもり(秋)

 ・かみざ(1124日)

日の入り時に溜池のほうを向いて祈顧をし、その後村の人たちが集まって酒盛

りなどをする。

 

○昔の若者

 テレビや映画もなかった時代は、村ごとにまわってくる芝居が一番の娯楽だったようだ。そのため、当時の公民館は歌舞伎や狂言や浪花節ができるように、部屋の敷居が簡単にとれるような構造になっており、今までもそのなごりの舞台のセットなどが公民館にあった。

 

今回この調査にご協力項いた中浦地区の皆様

・山下清さん:大正十三年

・山下未男さん:大正十四年

・川添武市さん:明治四十一年

・川添政雄さん:明治四十二年

・坂本泰男さん:昭和三年

・川添千一さん:昭和六年

・川添隆治さん:昭和二十二年

・川添定人さん:昭和二十六年



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