歩き・み・ふれる歴史学/大薗

 

調査した学生

小島奈緒美・1AG98076

西田早稲子・1AG98165

 

聞き取りしたおじいさん・おばあさん    

<玄海町大薗>

井上 勝美   昭和20年5月

山口      大正14年11

山口      大正10年9月

前田 富幸   昭和2年1月

山口 チヨ子 大正12年10月

 

1日の行動記録>

6月28日、私たち2人は8時15分集合に間に合うように早起きをして、学校に来てバスに張り切って乗り込みました。

バスが出発して30分ぐらいはワクワクしていたためか、元気におしゃべりをしていましたが、しばらくすると前日の疲れのため2人とも熟睡してしまいました。そのうちにバスは休憩所についていて、バスが止まった勢いで起きました。そして、また出発して30分ほどすると、最初に降りる人たちが降りていきました。途中でバスが道を間違ったため、違うところで降ろされた彼らに同情してしまいました。あのヒッチハイクで有名な猿岩石とダブって見えました。そのうちに、11時が過ぎ私たちは仮屋の近くのところで降ろされました。

 

かれこれ20分ぐらい歩いたでしょうか、私たちはやっと区長さんである井上勝美さん宅につきました。区長さんのご家族が非常に温かく私たちを迎えてくれました。区長さんは、皆さんを公民館に集めていらっしゃるということで、私たちは区長さんの娘さんに車で公民館まで送っていただきました。公民館には、区長さん、男の方が2人、女の方が1人いらっしゃいました。私たちはすごく緊張しました。「さあ、始めましょうか。」と区長さんがおっしゃったので、私たちは慌てて地図を広げ、4人の方に見せました。どうやら地図が相当古かったらしく、さっき私たちが通ってきた国道もないわ、仮屋小学校は今と違う場所にあるわで、皆さんびっくりなさっていらっしゃいました。

 

それで区長さんが大体の国道を地図上にかいてくださって話が始まりました。しこ名をまず聞きました。しかし、この大薗には地名をしこなで呼ぶ習慣があまりないらしく、少ししか聞くことができませんでした。その後、村の水利について聞きました。大薗は地下水が豊富だそうで、今まで1回も水に困ったことがないとおっしゃっていました。今は田んぼばかりの大薗も、戦前、戦中はサツマイモを、戦後直後は政府からの命令でみかんを作っていたそうです。米を売ってもあまり利益がないそうです。店頭で売られている価格は農家が米を売る価格の3倍だそうです。すごくびっくりしました。私たちは農家の苦労とかを直接聞いてしみじみ感じました。そのうちに「近頃の若者は」といったたぐいの話になり、グサグサッときました。そうこうしているうちに話は終わってしまい、私たちは別のところへ行こうと言う事になりました。私たちは皆さんに深くお礼を言って、公民館をあとにしました。せっかくだから、皆さんに教えてもらった「近道」を通ってみようということになり、私たちは仮屋を目指して近道を通る事になりました。やたらと坂が多く、上ったり降りたりの繰り返しでした。本当にこれは近道なのだろうかと疑ってしまいました。途中にアジサイがきれいに咲いていてうっとりしました。そのうち海の潮の香りが漂ってきたなと思ったら、仮屋のバス停が目の前にありました。そして海の近くで弁当を広げ、食べました。まだバスが来る時間までは何時間もあるようだったので、仮屋に来ている友達を探しに出かけました。

 

まず子供たちの遊んでいた仮屋小学校を訪ねました。いろいろな遊具があって懐かしかったです。この玄海町に来て最初に気づいたことは、音が少なくて、大変静かな場所であると言う事です。街の騒音に囲まれて育ってきた私たちにとってとても新鮮なものでした。

 

やがて、ゆっくりと時が過ぎ、バスに乗り込みました。そして7時前に私たちは学校に到着しました。

 

 

−村の小字−

ハチココ (八石)           ビワゼ

シラツチ (白土)          コダ  (古田)

ミミキリ(耳切)   耳が切れるほど寒いという意味

マエダアザ (前田)          オオイシノモト (大石の元)

オオゾノ (大薗)           ヤナギヤマ (柳山)

ハヤサキ (早崎)            シゲクラ (繁倉)

 

−しこ名一覧−

<村>

オオゾン (大薗)

<田畑>

小字   ミミキリ  (耳切)のうちに マツノ、    ヤナギヤマ (柳山)

小字   シラツチ (白土)のうちに マルオ (丸尾)

ウシロメ (後目)というしこ名があるが場所は不明

 

<橋>

大薗橋、浜野橋があるがしこ名はない

 

<ため池>

大薗耕地第二溜   ナカダメ(中溜)

大薗耕地第三溜   サンバンダメ(三番溜)

柳山溜           コウチダメ

 

−山にあるむらとして−

正式名称が、ニュウドウツジ(入道辻)である山があるが、地元の人々は,ニュウドンツジとよんでいる。

大薗では、焼き畑は行われてなかった

 

−海の村として−

<岬>

小島      目崎

 

−村の水利−

以前、大薗では水源がなかったため,水田ではなく畑であった。しかし、畑作農業から稲作農業に移った。その当時は、湧水を利用していた。それから、稲作が発達し,溜め池から水をひくようになった。しかし、すぐに溜め池はひあがってしまうため、ポンプで水を引き、その水を溜め池に溜めておくようになった。しかし、現在では唐津の松浦川から水を共同で買っている。           

これまでの用水は他村と共有       

近い将来村で柳山溜をうめる予定

 

<1994年の大旱魃>

例年にくらべて水量はなかったが、大薗には地下水があるため、それほどひどい被害はなかった。現在では水に困ることはほとんどないが、溜め池ができた当時は大旱魃でもないのに、3年に1回とれれば良い方であった。

 

−村の耕地−

昔はやはり米がよく取れない所や取れるところの差があった。

取れない所     小字で言えばコダ (古田)

 

−村の生活に必要な土地−

現在、共有地はないが、昔はあった。

(共有地)大山神社周辺

          柳山溜北方向  (共有林があるのだが、それは防風林としての役割を果たしている。)

 

−村の道−

大薗の住民は皆仮屋小学校に通っている。大薗から旧仮屋小学校までの道を近道と呼んでいた。近道は通行利用のみ。

 

−米の保存法−

自分たちで食べる分は脱穀(すべて自宅で行われる)したあと、天干・乾燥して、むしろ干しをする。そのあと米はせこに保存する。

*せこというのは、個人宅に置いてある大きな米の収納箱で1箱12俵はいる。出荷する米はすぐに農協に渡す。

 

−村の過去−

<米以外の50年前の収入源>

戦時中は、さつまいもであったが、戦後はみかんであった。みかんは政府によって奨励され、半強制的であった。そのため女・子どもも働いていた。(大薗はみかんに適した土地である。)その他には、麦・大豆などもある。しかし、出稼ぎはなかった。

 

−村のこれから−

大薗にある柳山溜を埋め立てて、その周辺の段田に土を埋めて、田をきれいに整備していく予定。埋め立ての費用は、ほぼ村全体で負う。(私費)

現在数件のみ専業農家で、近い将来専業農家はなくなり、すべて兼業農家になる。

今後の日本農業はかなり最悪で、現在でも稲作は赤字続きだそうだ。しかし、皆さんなるだけ農業を続けたいという意気込みが感じられた。

 

−大薗を調査して−

大薗の住民は、昔の風習や生活様式をひきつぎながら、現代についていこうといろいろ改善し、大変積極的に対応していた。初対面の私たちにも協力的におしえてくださった。 



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