【東松浦郡玄海町大鳥】

佐賀県訪問現地調査レポート(しこ名について)

1TE98562 中野 努

1TE98595 久鍋秀幸

 

訪問先:佐賀県玄海町大鳥

話者:峰 茂光さん(昭和7年5月生まれ)、他

 

しこ名一覧

しこ名         小字

ヒラオ         大鳥

トウゲ(峠)      大鳥

サカイマツ       大鳥

タテバタケ       牧ノ地

サカイマツ       牧ノ地

テツンタンナ力     ?

タメムコウ       ?

クビキリ        ?

 

昭和15年熊本のしょくりょうえいだんの部落から、ありうら農協に払い下げることにより現在の大鳥となった。そのため、他の部落と比べて歴史が浅く、しこ名などの情報はあまりないそうだ。また峰さん以外は、急な訪問となってしまったため質問に答えてもらうことができなかった。山道や岩、切り野については、全く情報を得ることができなかった。

 

大鳥となった当時は、荒れ地が二町程度あっただけで、さつまいもを植えていたが収穫量は少なく食べるのがやっとなぐらいしかできなかったそうだ。以前からあった周辺の部落と開拓部落とでは仲が悪く、農作物がなくなると、相手が何かしたのだと噂するほどであったが、けんかにいたるほどの事はなかったそうだ。

 

この地域は地図で見ると、周辺に溜め池が多いのに対し水路があまりないので少し不思議に思っていたが、実際話を聞いてみると、これらの溜め池は周辺の村のためにあり、この村では溜め池の水を用いることはなく、井戸の水を利用しているそうだ。大鳥地区は、山の上部のほうにあるため、周りの村が水不足になっても、水に困ることはなく、かえって、水不足になるのが珍しいくらいだそうだ。水が多いときには、土に含みきれずに、溢れ出すこともあるそうだ。そのため、旱魃になる恐れがない反面、風害や冷害に頭を悩ませているらしい。井戸の水は、現在に至るまで涸れたことはないそうだ。井戸の水を汲み上げるのに、つるべを使っていたらしい。今も井戸の水が飲めるかどうか調べに来ると水道局の人に言われているがまだ、来てないらしい。

 

肥料については、化学肥料が使われる前後で、米の生産量に違いがでているのか聞いてみたところ1反あたり1俵程度収穫量が増えたそうだ。現在、農協で売られている肥料は、よく腐っていなくて、肥料としてはあまり好ましくないと言っていた。また、稲刈りの際に、わらは、田にそのまま置いておくので、それが肥料となり、田にはあまり肥料をまかないそうだ。

昔は、牛や人間の排泄物を、肥溜めに溜めていて、それを肥料としてまいていたそうだ。田の良し悪しは、ほとんどなく実際に農協に収めるときにも等級などはつけていないと言っていた。

 

米の保存については、良く分からなかった。ただ、この地域では、その土地を祭る地主神はなく、大鳥神社という神社も個人の神社であるため、農作物を奉納する必要がなく、そのような事のために農作物を保存する事はないそうだ。

大鳥地域は山の上にあるため、田に機械を入れることは難しく、牛を使って耕しているのだと考えていたが、実際に行ってみると、田は機械が入るように区画整備されていた。裏作については、今現在行われている所はなかった。牛を飼っている家も、9軒ほどであるらしい。また現在は全ての農家が兼業であり冬には、上方(大阪、東京)や新潟などに、どかたなどをしに、出稼ぎにいくそうだ。

 

風呂を炊く薪については、はじめの頃は荒れ地が2町あっただけだったので、秋は荒れ地にできる枯れ木を集めることによって、薪のかわりにしていた。それ以外の季節では、周辺の山に落ちている木を集めて、薪のかわりにして風呂を沸かしていたため、薪をとるためにお金を支払うということも無かったらしい。また、現在のように、毎日風呂にはいることもなく、夏は大鳥溜で泳ぐことで、風呂に入るかわりにしていたらしい。昔は、風呂を沸かすのが大人の仕事で、畑に肥料をまくのが子供の日課であったらしい。現在は灯油で風呂を沸かしているという話だ。

 

これからの村のあり方について、どのようになっていくか分からないと言っていた。若い人は、都会のほうに働きに行くため過疎化が進み、後継ぎの問題が深刻になっていて、この村の生存も、これらに大きく左右されていてどうなるか分からないとのことだった。

 

最後に地名がつけられた由来について聞くことが出来たので挙げておく。

さかいまつ…丸田浦に通り抜ける境界の所は、大きな松があり、村と村の境であるためつけられた。

てつんたんなか…その田の中にてつどうがとうっていたらしい。

ためむこう…大鳥溜の向こう側にある田という意味。

くびきり…この地域ではないが、江戸時代に実際に首切りが行われていたらしい。



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