【東松浦郡玄海町新田】

歩き・み・ふれる歴史学 玄海町・新田現地調査レポート

1AG98244 山中麻衣子

1AG98247 吉田 優

 

ご協力していただいた方々

鬼木 次郎さん(87歳)明治44年生

清水 盛雄さん(83歳)大正3年生

徳永 磯喜さん(72歳)大正15年生

宮崎 ミキさん(77歳)大正10年生

和田倉 末雄さん(73歳)大正14年生

和田倉 スミエさん(69歳)昭和3年生 (五十音順)

 

1、通称地名(しこ名)

新田は江戸時代に未墾地(のち干拓地も)を買収してできた部落であり、その名の通り比較的新しいため、田の公的な正式名称である小字は存在するが、しこ名は存在しない。また小字をあだ名として使っている。

 

2、干拓の歴史

新田の干拓は昭和28年から着手され、昭和37年に潮止めが行われて、約13年をかけて昭和413月に完成した。この干拓は、工事は農家が行っていたが農林省の県営事業であり、13年の間でも資金が続かず中断していた時期があった。干拓完了当時は入植する者がおらず、田を何年か遊ばせていた。というのも、当時新田付近では食物が豊富で、その収穫を必要としていなかったからだ。遊び田をもてあました県は、干拓地を町に委託することになった。試験的に有浦中沖に1年田を作ったが、小潮時堤防の下から潮がだんだん上がってきて、作物が思うようには作れなかった。その後トマト・なすび・すいか等の栽培を試み、三段の田も作ったがやはり下が砂ばかりですぐに固まって植えられなかった。どろをはればよかったかもしれない、と今では言われている。

現在でも干拓地域では土壌は1丈(約30cm)くらいで、その下は砂や貝殻ばかりらしい。また岬風(海からの風)で病気になる人も多い。

 

3、井樋(樋門)について

新田では大新田の端と金の手では高さに約1mの差があり、川の真ん中から石田ノ内の方に約25cm下がっている。よって水への対策には相当の苦労を強いられた。

新田ではゆびんという水門が使用されており、潮の干満で作動していた。(もちろん今は自動である。)ゆびんとはちょうつがいのような形をしており年に1回板を交換していた。

昭和28年の大洪水では、野原においてあった材木が流れ、樋門の所で板が起き上がって詰まってしまった。消防団が来たが手に負えず、住民たちは警察に内緒でまいと(火薬)による爆破を試み、夜10時すぎに樋門ごと爆発させ3発日で完全に崩壊した。この洪水では今の県道より水面が上がり、田はほぼ沈み、田から船の方へ船で通った。

この洪水の後から、樋門に何か詰まっていないかなどを調べるため、住民が一週間交代で当番を決めていた。今は干潮時と満潮時の二回見ているが、昔は適当に見るだけだったらしい。

 

4、堤防について

新田の堤防は大新田の西端から金ノ手まで設けられている。しかしこの堤防も昔は弱く何回工事しても崩壊していた。そのため沖ノ田が全滅したこともある。田は一年間潮をとると翌年には使えないので、沖ノ田では全部稲が枯れた。しかし枯れた田も一年経つと使えるようになったらしい。

何度作り直しても崩壊する堤防をどうにかしようと、新田では堤防の弱いところに堤防の事をよく知った人を埋めた。これを人柱といい、今でも4年に一度土手祭りとして人柱となった人の供養を行っている。また人柱の監督は寺田島の神(島原の乱後自殺したが)で、袴(着物)のほころびを普通は縦にふせるが、横にふせた人がいたらその人を人柱にするように言いつけていたという。新田ではうらかた(うらない)をすると一年に一回は人柱の魂が出るといわれている。

また新田では、寺はみんな東光寺である。東光寺の檀家は諸浦・下村・新田の約350件で、そのうち新田は25件である。東光寺は有浦下に有り、明治時代に描かれた絵もいくつか置いてある

 銭亀の方では、難航となり工事のための人夫がなかなか集まらず、甕の中に手を入れて給料のつかみ取りをさせるなどという対策も練られたらしい。まさにこの地の謂れである。

 

5、塩田について

新田では県の水産課を中心に昭和19年から塩田が始まった。一番の目的は塩を加工して魚漬けに使い、それを唐津市場に配給することだった。松原で小潮の時、誘湧水路(ゆわくすいろ)にたまった潮を潮の釜で夜通したいた。塩作りは日差しの強い夏の日にトロッコやちりとりやくわを使って行われ、相当な重労働で、月に一回休みがあればいいうちだった。しかし給料はまあまあで、初期は一日130円、終戦当時には一日190円まで上がっていた。(ちなみに昭和16年の会社日給は50銭程だったので、それを考えると塩作りは悪い仕事ではなかっただろう。)

しかし終戦とともに外国から塩が入ってきて、昭和23年に塩田は行われなくなった。戦時中に始まり終戦とともに終わったので、男達は戦場から帰ってきた時塩田を初めて見てびっくりしたという。

 

6、水への対策

a、用水路

新田では水路は長倉用水の流末をとっていて、若宮八幡宮のやや南から一本松側に流れている。せきの名はなく、場所がその名となっている。

b、水不足について

新田は基本的に水が豊富で、何年か前に1、2回干ばつがあったが近年はない。その時は水車がなかったのでポンプで水揚げしたらしい。水不足の時はダムができた松浦川や有浦川、また時には塩田から水を揚げる。しかし、そんな事はほとんどなく、四年前の玄海町の干ばつの時にも、新田は豊作だった。

 

7、新田の農業

a、米作

新田は今はほとんど乾田になってしまったが、昔は湿田が多かった。今のように米の減反政策で苦しむこともなく、米で物々交換をしたりして米の収入だけでも充分生活できた。今はいちご栽培や紙すき(和紙づくり)、タバコ、みかん栽培、養蚕でおぎなっているらしい。反当8kg(最高)くらいで田の当たりはずれや堆肥の使い方による豊作・不作の差もあったが、飢饉のおこる程の不作はなかったらしい。

米は橋境期(ハザカイキ)の米、すなわち夏米が高かった。しかし、橋境期の米というのは貯蔵が難しく、余裕のある農家しかもてなかった。「あさひ」の米もおいしいと有名だったらしい。今では「日本晴れ」や「コシヒカリ」が中心である。

終戦前までは米検査員がいて、米相場もあり1俵3円位だった。

当時は玄米で商品として唐津や呼子から来た米商人に売られ、船や牛車で運搬されていた。

 

b、害虫対策

新田では昔から農薬はあまり使っておらず、鯨油を使って虫を防いでいた。これは穴のあいた竹の筒に鯨油を入れ、水田に一滴ずつ落としていくと、その油が水面を覆い、害虫が呼吸困難に陥り死んでしまうというしくみになっている。

また穂についた害虫に対しては、竹の先で作られたアライというほうきで払ったり、大人よりも視力のいい小学生を動員して苗代に産み付けた卵を取らせたりしていた。

また蛾に対しては、誘蛾灯(のち蛍光燈)で火に引き寄せて殺すという方法があった。この方法は効果があったので、何年かはやったらしい。

害虫の種類としては、油に弱いウンカ(フジンシュ)、ツマグロヨコバイ、稲の芯を食べるニカメイチュウかあげられる。

 

c、肥料

昔は部落総出で草原を焼いて(野焼きという)牧草や牛の食料やしかせ(牛のふとん)に使っていた。入会山のように草を自由に切るところはなく、畑の周辺を切ったりもしていた。しかせに使われた草は牛のふんと混ぜてこやしにして堆肥小屋におかれていた。こうしてできた堆肥は「マヤンコエ」と呼ばれていた。

ちなみに小屋には牛小屋、堆肥小屋、馬屋(まや)があり、馬屋には米を入れたり、人が住んだりしている。

 

d、米の保存

精米の過程には唐箕や千石が使われ、その後、1m×0.5mの箕やいとろしでふるわれた。この箕といとろしは熟練者のみが使うことのできるものだった。

また、乾燥にはねくぶきが使われ、天日乾燥された。ねくぶきはたたみ4枚分の広さで、農家が夜なべで縄を機織り機で編んで作った。

できた脱穀米はこづみといい、わらこづみやとりこづみ・いねこづみがあった。新田では主にわらこづみで保存し、トタンで作った大きな小屋(もみぜこ)に置いた。米はほとんどもみのまま保存していた。

こうして保存された米も、いい米はほとんどお金に替えられ、普通の農家では、麦にくでごめ(不良米)を一割位混ぜて食べられていたらしい。

この麦ごはんをひらかし麦めしといい、2時間位麦を炊いた後、少量の米を入れて食べていた。今では麦をひしゃいだしゃぎ麦が使われている。

 *ねずみ防止*

ねずみから米を守るために、家々ではトタン張りや甕に入れて保存した。甕は当時宝物といわれる程高価だったので陶器で作られた焼酎甕を使っていた。中に入れる焼酎や酒は自家製だったが、それは禁止されていたので山で隠れて作ったりしていた。しかしそれを他人が見つけ勝手に飲み、作り主が見に行った時にはもうあまりなかった、ということもあった。タヌキが酒好きで、その酒を飲んで酔っ払っていたという話もある。甕には稲が生き生きするように空気穴が開けられた。しかしこの小さな空気穴のように小さいすきまでもねずみはしっぽを使って中のものを出して食べていた。

 

8、ガス・電気

昔は燃料の薪は、自分の個人山から取ってきて、唐津に売りに行ったりもしていた。くど(かまど)は昭和40年のプロパンの普及まで頻繁に使われていた。

また電気は大正10年の7月の水力発電の普及まではランプが使われていて、今でも移動する時はカンテラ(石油のランプ)が使われることもある。

電気がきた当時は、電気料金を払うのに四苦八苦していた。話をお聞きした人の中には1ヶ月1kwに押さえて2銭にするように節約していたと言う人もいた。有浦電気は左ネジで、他の部落から持ってきた電球とは合わなかったので不便だったという。

ランプの手入れは、手の小さい子どもがガラスを磨いてしていた。(ほやみがきという)

 

9、現在そしてこれから

昔は豊作が多く米だけで生活できた新田も、今では減反政策や米の価値の低下のため、専業農家はほとんどいない。農家は出稼ぎのほか、紙すき(和紙作り)やたばこ、みかん栽培、養蚕などで家計を補っているらしい。

自給自足だった生活も、今ではほとんど買わなければならなくなってしまった。

埋め立てから塩田、堤防などへの新田の努力の歴史は、本当にすばらしいものである。

疎化が進む中でどのようにして、この素晴らしい歴史を語り継ぎ、守っていくかが今後の新田の課題となっていくだろう。



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