【東松浦郡玄海町長倉】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1EC98224 内藤 隼人 1EC98240 服部 洋輔
話者:脇山 正雄さん(大正8年生まれ)
○字について ヒラガタ(平潟) ヒラガタカミ(平潟上) ヒラガタシモ(平潟下) デイノウチ(堤の内) イチノツボ イガシラ テイトウ シュクノウ(宿内) イワサキ ハギノ(萩野) ワリカケ(割掛) オニノカマ ヒヤクチ(冷口) クマトコ ナルタキ(成竹) タキノカミ(滝の上) タキノシタ(滝の下) ノツキ(野付)
○水田の水の引用について 長倉町の全ての水は、近くにある有浦川から引水されている。また、これらは長倉町だけでなく、近隣の村の新田町や轟木、平潟、藤平などについても同様に有浦川を主な水源としている。なお、藤平については有浦川をせき止めて用水にしていたということである。
○水に関しての問題 長倉町の近くには有浦川という豊かな水源があったため、水不足に関する問題は殆どといっていいほど無かったそうである。そのため、水不足のために他の村と争ったということも殆ど無く、4年前(1994年)もこの付近の村々には影響が及ぶ事は殆ど無かったということである。しかし最近、この有浦川の上流にダムが建設され始めた。もともとこの地域は水に恵まれていたので、村の水田を減らすだけのダムの建設には反対したそうである。
○米の保存方法 この村では、米をモミゼコと呼ばれる木の囲いのモミの貯蔵庫に、モミのまま保存していた。ちなみにこのモミゼコほとんど各家に置いてあるのだという。
○米以外の作物 戦後間もない頃は、この村でも例外ではなく、やはり食物が手に入らなかったそうである。これが原因でこの頃から自分達でいろいろな食物を作ることに挑戦し始めたそうである。米のほかに裏作として麦や菜種を撒き始めたのもこの頃からである。また塩を吹き、サトウキビを育てて砂糖を作ったり、綿花を作ったりしていた。また飢饉に備えて、粟も僅かながら作ったらしい。昔は甘藷(サツマイモ)もよく作ったようである。戦後の頃は、とにかく自給自足が原則だったらしい。
○米以外の収入 話をしてくれた脇山さんによると、現在もそうであるが、米の収入だけではとてもやって行けず、ほとんどの農家ではいろいろな作物を合わせて作っていたということである。その種類には、製紙、養蚕、タバコ、みかん、焼酎などが挙げられる。これらの収入が、ほとんどの農家で現金収入の大部分を占めていたらしい。
○村の行事について ・12月28日 この日は、村のどこでも餅つきが行われる。この餅つきは他地域の村が行うやり方とほとんど変わらないが、変わっているところと言えば、もし28日に行うことができなかった場合には、翌29日ではなく30日に行わなければならないということである。これは29日に餅つきを行う事は縁起が悪いとされ、年を越すことができなくなるためだそうだ。 ・12月31日 この日は大晦日であり、この村でも当然年越しそばを食べて年を越す。ただし、この村では年越しそばのことを「ウンソバ」と呼ぶらしい。また、この日にはテガキというものを作り神棚に供えることによって、その年の豊作や安全を感謝するとともに、来年の豊作と安全を祈願するそうだ。 ・1月14日 この日は「十四日節供」ということで、赤飯に似た「豆飯」を炊いて、年を無事に越せたことに感謝をするそうだ。 ・1月14〜15日 この頃に、村では「モグラ打ち」と呼ばれる行事が行われる。まずこの行事を行う前に、山から2本のオダケ(男竹)を取ってくる。次にこのオダケにワラをつけ、できたもので庭中を叩くというのである。2本用意するのは、1本を子供用、1本を大人用として使うためである。これを行うことによって土の中を掘り起こしてもらい、その土地の農作物の育ちを助けるそうだ。ただし、この行事はどこの家でも行うというわけではないようで、主に名家で行われることの多かった行事なのだそうだ。 ・1月17日 この日は「的射講」と言う行事が行われる。まず始めに35〜36個ほどの的を作る。次に的の真ん中に紙を貼り、この的を射るという行事である。この的を射るために使われる矢は、山から取ってきたオナゴタケ(女竹)を使い、12本の「鬼矢」を作っているのだそうだ。この行事は、的を射抜くことによって鬼を射抜き、村から災いを追い出すために行われるのである。 ・2月2日 この日には名家に仕えている奉公人達が1年に1回だけ休みを貰い、実家に帰るということである。「別れ別れ」の日と言って、これも奉公人のいるような名家の行事である。 ・4月4日 この日には村の長老達を祝う「養老会」(現在は「敬老会」と呼んでいる)が行われる。ただし、この養老会は必ずしもこの日に行うと言うわけではなく、この頃に行われるのが習わしらしい。どうやらこの地方では、桜の花が満開になるのがこの頃らしく、花見にちょうどいいこの頃を選んで養老会が行われるらしい。 ・6月土用の日 この日には「川祭り」が行われる。この祭りは秋の豊作を願い水神様を祀る祭りで、大人たちの祭りだそうだ。まだ20cmくらいの一年竹を山から切ってきて、その一年竹で祭壇を作る。そして祭壇の中にお神酒と団子を供え、神に祀るのだそうだ。この祭りは盛大にすることによって、できるだけたくさんの米が取れるように祈願したようである。 ・11月24日〜26日 ほとんどの田んぼや畑で収穫が終わったこの頃、村では「地鎮祭」が行われる。1年間の豊作をもたらしてくれた神様と田んぼに感謝をして、また来年の豊作を願うとともに、1年の行事を終わる行事である。
○村と日本の農業について 話をして頂いた脇山さんがおっしゃるには、今の農家が他の作物を全く作らないで生活をしていくことは、非常に困難なことであるのだそうだ。脇山さん自身も、米の他にみかんを作り、息子さん達も会社に勤めることによって生計を立てているらしい。またそれ以上に村で深刻なのは後継者不足で、この村だけではなく、日本中の有りとあらゆる村で農家を続ける人間は、どんどん減っていくだろうということだった。この村ではダムの建設などで消えてしまい始めている村の姿を残すために、区長である脇山さんを中心として、村の昔の様子、昔の人々の生活、昔の行事などを何年もかかって調査し、ゆくゆくは1冊の本にして、後世に残していくつもりなのだそうだ。 |