【東松浦郡玄海町牟形】

歩き・み・ふれる歴史学 現地調査レポート

1AG98248 吉冨真奈美

1AG98252 力石恵美子

 

(佐賀県玄海町牟形 調査日6月28日)

話者:竹下 ヤヨリさん

林田 密之助さん

 

日程

6月28日(日)

8:30 九大六本松キャンパス集合

11:00 玄海町牟形到着

11:10 八幡神社訪問

         (区長に話を聞く)

12:00 昼食

13:00 宝昌寺訪問

         (住職不在)

13:30 八幡神社訪問

14:00 牟形 竹下ヤヨリさん方訪問

         (竹下ヤヨリさんに話を聞く)

14:30 牟形 林田密之助さん方訪問

          (林田密之肋さんに話を聞く)

15:00 牟形 寺田利太郎さん方訪問

         (寺田利太郎さん不在)

15:30 帰宅

 

 

地名

小字

後谷のうちに

前谷

ミミトリ

耳取

由来:ここは昔、罪人の耳が切られていた刑場であったため。中には耳がちぎれる程風が吹くためという人もいるが、これは噂らしい。

小字

牟形のうちに 

イワハナ

イワンバナ

岩鼻

由来:神社(八幡神社)から続いている岩の先端であるため。

小字

前谷のうちに

フルデラ

古寺

由来:昔、宝昌寺というお寺があった場所であったため。現在宝昌寺は別の場所にあるため。

小字

南浦田のうちに

ツキワタシ

着渡

由来:昔、ここは船着場であるため。

小字

柴神のうちに

ムカイバナ

向鼻

由来:町民(村人)が住んでいる部落に対して向かい側の地域であるため。

小字

柴神のうちに

イヌモドリ

犬戻

由来:犬でも戻ってくるほど、崖が急で危険な場所であるため。

小字

後谷のうちに

ミミトリゴクデン

耳取獄伝

由来:耳取と呼ばれる一帯の下の地域を指す。が、由来は不明。

小字

前谷のうちに

ナカタ

ナカンタ

中田

由来:昔、この地域は畑だったが、その畑の中に田んぼが少しあったということより。

小字

前谷のうちに

ヤマノカゲ

ヤマンカゲ

山の陰

由来:不明

小字

牟形のうちに

アカセド

赤瀬戸

由来:不明

小字

中野のうちに

フルタ

古田

由来:浦田川(ウランタガワ)の水系の貯め池よりも古くからある水田のため、こう呼ばわる。しかし、まわりが水田のために畑にした方が効率よく、下の地域に水をまわせるため、畑にきりかえたということだ。田んぼから畑にきりかえたという意味で「古田」と呼ばれるという人もいた。

 

*大鳥<オオトリ>

この地域は終戦後、国が牟形から買い取って疎開していた人に売り、開拓させた地域で、それまでは牟形の人たちは草場として使っていたらしい。大鳥は牟形から遠いし広いので、田としては使用しなかったそうだ。大鳥は戦時中、陸軍の演習場として使われていたため、町民たちは薬筒を拾っていたそうだ。

 

牟形の水系

 牟形六枚溜(諸浦溜、牟形三枚下溜、牟形三枚中溜、牟形三枚上溜、轟木溜、大鳥溜)があり、これらは牟形の主な3つの川、浦田川、平床川、連田川から引かれている。6つの貯水池はすべてつながっており、この6つの貯水池により、牟形の田は潤っている。10年前までにやはり水取り争いはあったようだが、町民の誰も詳しくは教えてくれなかった。昔は、溜係という人がいて水を貯めていたそうだ。その人は大きな権利を持っており、水を多く取れたらしい。現在に牟形が三枚溜から水を取るということで、周辺の町戸と折り合いがついている。水の取り分は所有している田の面積により決まっており、もう水取り争いはないということである。

 

聞き取り

 牟形町  話者:竹下ヤヨリさん 大正2年生まれ 満84歳  調査者:吉富・力石

牟形の農地は、牟形三枚溜の上の方(ウワバ)(大鳥から見て上の方)と呼ばれる地域にしかなく、牟形は元々畑作の地域である。しかし焼畑はほとんどやっていなかった。昔、農地を平等に分けるため、松山際(マツヤマギワ)と呼ばれる地域は、各家に五セずつ分けていき、余った土地は競りにかけていた。田のしこ名はあったかどうかわからない。水争いは、川係という係があり川の近くに住んでいた人がその係をしていた。川係という係の人自身は水を使用することはあったが、出しいだ係という人は水を使用することはなかった。牟形は農業以外の収入はほとんどなく、漁をしている人も村に一軒しかない。米、大根など穀物、野菜が主な財源であった。中でも大根は有名で、大根を干し、町がデンプン工場を作りデンプンを生産していたので、それも財源の一つだったが、今はもうなくなった。豚、牛、にわとりは各家で食べるくらいは飼育する家も何軒かあるが、財源になるほどは飼育していない。米の保存法は、モミゼコ、ガンガンゼコと呼ばれる箱を作り、保存していた。モミゼコは、ただ木で作られている箱で、ふたをして米を入れるものであった。どちらにもネズミは絶対入ってこなかった。麦は干して麦ガメに保存していた。薪は、自分たちの家のまわりにある林(ワセジと呼ばれるところ)から仕事の合間に取ってきて使っていた。肥料は牛にわらを食べさせ、その牛のフンを使っていた。

 

牟形町  話者:林田密之助さん 明治45年生まれ 満85歳 調査者:吉富・力石

 田のしこ名は、誰々の田んぼと呼んでいたので、しこ名は知らない。田んぼはほとんど小字で呼んでいる。農業以外の収入はなく、物々交換もなかった。行商人がやって来た時に家で作った作物、穀物を売り、現金収入を得ていた。牟形は田より畑が多い。麦、さつまいも、さといも、ジャガイモなどを年中作っていた。(麦が収穫し終わると、大豆を植えるなど畑を年に2、3回使う。)

 

感想

85,6歳の方では若すぎて田のしこ名は分からなかった。牟形では田んぼを小字で呼ぶらしい。宝昌寺の住職さんが牟形の昔ことを調べているらしいが、留守だったので話が聞けず残念だった。また、寺田利太郎さんが牟形のことをよく知っておられるそうだが、寺田さんも留守だったので話が聞けなかった。

牟形では85,6歳の方は若く、90歳の方が色々知っておられるそうだが、どの方ももう他界されており、田のしこ名はもうほとんど分からなくなっている。

がしかし、地名やその由来などは若い人々にも伝わっており、牟形の伝統を保っていくための努力がなされていることが解った。



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