【東松浦郡玄海町牟形】 歩き・み・ふれる歴史学 現地調査レポート 1AG98248 吉冨真奈美 1AG98252 力石恵美子
(佐賀県玄海町牟形 調査日6月28日) 話者:竹下 ヤヨリさん 林田 密之助さん
日程 6月28日(日) 8:30 九大六本松キャンパス集合 11:00 玄海町牟形到着 11:10 八幡神社訪問 (区長に話を聞く) 12:00 昼食 13:00 宝昌寺訪問 (住職不在) 13:30 八幡神社訪問 14:00 牟形 竹下ヤヨリさん方訪問 (竹下ヤヨリさんに話を聞く) 14:30 牟形 林田密之助さん方訪問 (林田密之肋さんに話を聞く) 15:00 牟形 寺田利太郎さん方訪問 (寺田利太郎さん不在) 15:30 帰宅
地名
*大鳥<オオトリ> この地域は終戦後、国が牟形から買い取って疎開していた人に売り、開拓させた地域で、それまでは牟形の人たちは草場として使っていたらしい。大鳥は牟形から遠いし広いので、田としては使用しなかったそうだ。大鳥は戦時中、陸軍の演習場として使われていたため、町民たちは薬筒を拾っていたそうだ。
牟形の水系 牟形六枚溜(諸浦溜、牟形三枚下溜、牟形三枚中溜、牟形三枚上溜、轟木溜、大鳥溜)があり、これらは牟形の主な3つの川、浦田川、平床川、連田川から引かれている。6つの貯水池はすべてつながっており、この6つの貯水池により、牟形の田は潤っている。10年前までにやはり水取り争いはあったようだが、町民の誰も詳しくは教えてくれなかった。昔は、溜係という人がいて水を貯めていたそうだ。その人は大きな権利を持っており、水を多く取れたらしい。現在に牟形が三枚溜から水を取るということで、周辺の町戸と折り合いがついている。水の取り分は所有している田の面積により決まっており、もう水取り争いはないということである。
聞き取り 牟形町 話者:竹下ヤヨリさん 大正2年生まれ 満84歳 調査者:吉富・力石 牟形の農地は、牟形三枚溜の上の方(ウワバ)(大鳥から見て上の方)と呼ばれる地域にしかなく、牟形は元々畑作の地域である。しかし焼畑はほとんどやっていなかった。昔、農地を平等に分けるため、松山際(マツヤマギワ)と呼ばれる地域は、各家に五セずつ分けていき、余った土地は競りにかけていた。田のしこ名はあったかどうかわからない。水争いは、川係という係があり川の近くに住んでいた人がその係をしていた。川係という係の人自身は水を使用することはあったが、出しいだ係という人は水を使用することはなかった。牟形は農業以外の収入はほとんどなく、漁をしている人も村に一軒しかない。米、大根など穀物、野菜が主な財源であった。中でも大根は有名で、大根を干し、町がデンプン工場を作りデンプンを生産していたので、それも財源の一つだったが、今はもうなくなった。豚、牛、にわとりは各家で食べるくらいは飼育する家も何軒かあるが、財源になるほどは飼育していない。米の保存法は、モミゼコ、ガンガンゼコと呼ばれる箱を作り、保存していた。モミゼコは、ただ木で作られている箱で、ふたをして米を入れるものであった。どちらにもネズミは絶対入ってこなかった。麦は干して麦ガメに保存していた。薪は、自分たちの家のまわりにある林(ワセジと呼ばれるところ)から仕事の合間に取ってきて使っていた。肥料は牛にわらを食べさせ、その牛のフンを使っていた。
牟形町 話者:林田密之助さん 明治45年生まれ 満85歳 調査者:吉富・力石 田のしこ名は、誰々の田んぼと呼んでいたので、しこ名は知らない。田んぼはほとんど小字で呼んでいる。農業以外の収入はなく、物々交換もなかった。行商人がやって来た時に家で作った作物、穀物を売り、現金収入を得ていた。牟形は田より畑が多い。麦、さつまいも、さといも、ジャガイモなどを年中作っていた。(麦が収穫し終わると、大豆を植えるなど畑を年に2、3回使う。)
感想 85,6歳の方では若すぎて田のしこ名は分からなかった。牟形では田んぼを小字で呼ぶらしい。宝昌寺の住職さんが牟形の昔ことを調べているらしいが、留守だったので話が聞けず残念だった。また、寺田利太郎さんが牟形のことをよく知っておられるそうだが、寺田さんも留守だったので話が聞けなかった。 牟形では85,6歳の方は若く、90歳の方が色々知っておられるそうだが、どの方ももう他界されており、田のしこ名はもうほとんど分からなくなっている。 がしかし、地名やその由来などは若い人々にも伝わっており、牟形の伝統を保っていくための努力がなされていることが解った。 |