【東松浦郡玄海町諸浦】

歩き・見・ふれる歴史学 現地調査レポート

1AG97105 志賀慈子

IAG97148 塔野重治

 

村の名前:玄海町諸浦

話者:宮崎忠夫さん(昭和2年生まれ)

  宮崎キヨエさん(大正15年生まれ)

 

行動記録

事前に区長、生産組合長、老人会、公民館分館長、消防団長などに電話をして話を聞かせてもらえるようにお願いしたが、用事があると断られたため、当日にもう一度電話をしてみた。そうしたところ、生産組合長の宮崎忠夫さんにお話を聞かせてもらえることになった。それで、宮崎忠夫さんのご自宅を訪問し諸浦の話をいた。その次に公民館を訪ねた。そこには偶然、農家のお年寄りの方が7,8名集まって世間話をされていたので、田畑のしこ名について話を聞いた。また、そのような話に詳しい人を紹介していただいた。しかしその方は留守だったため、道を歩いていたお年寄りに話をきいた。そこで時間が終了した。

 

田畑のしこ名

小字大下場:オミヤンウエ

       現在は違う場所に移されたお宮が、昔は大下場にあった。そのためお宮があった場所の上にある田は、オミヤンウエと呼ばれている。

オオミチ

       今では細い道であるが以前は大きな道があった。その道をオオミチと呼び、その周辺の田もオオミチと呼ばれた。

小字山中:ヤマンナカ、ミナミンウエ

小字石木:スイゲンチンウエ(水源地の上)、タメンハタ

小字西ノ谷:ナカンツボ(中の坪)

小字宗田原、浜の田、大岩などは、小字をしこ名として呼んでいた。

その他スギヤマンシタ(杉山の下)、アカマツ(赤松)などのしこ名があるが、どの小字にあたるかわからなかった。

 

水路のしこ名

スイシャイデ(水車いで):水車で酒米をついていた。昔このいでの付近には3件酒を作っている所があった。

ドウトナガレ

ヤマノタイデ(山の田いで):小字山の田を通り、大南や大下場の周りを流れる水路。

カワノシリ(川の尻)

オオミナミイデ(大南いで)

ヒノクチイデ(樋の口いで)

ツジイデ(辻いで):ツジイデはヒノクチイデの下流のほうの呼び名。

 

橋のしこ名

カケモチ橋:現在は諸浦橋。昔この橋の前にカケモチと言う酒屋があったため、カケモチ橋と呼ばれていた。

ガッコウ橋(学校橋):学校の前にある。

ナカンツボ橋(中の坪橋):現在も中の坪と呼ばれている。

 

道のしこ名

オオミチ(大道):今では小さい道だが昔は大きい道だった。

チョウド

 

滝壷のしこ名(昔、川があって滝壷のようになっている所)

カナカブチ

センダンブチ

 

家のしこ名

カワンウエ:川の上にある家のしこ名。

ナガサキ:戦前に子供が長崎に行っていて、戦後にその子供が帰ってきて家を建て直した。その家のしこ名。

 

山のしこ名

タキノヤマ(滝の山):ここに滝があるためつけられた。現在はこの滝には上ることができない。また、タキノヤマには薬師堂がある。この薬師堂にはめずらしい地蔵があり、大きい地蔵と小さい地蔵がある。小さい地蔵は昔からあったが、大きい地蔵は戦前昭和20年頃に作られた。

昔は田畑の仕事の副業として山の方の家では炭焼きをしているところもあった。

 

ソウベエザカ(そう兵衛坂):もと通学路だった。花の木に住んでいる生徒が西の谷の学校に行くため、この坂を通っていた。結構急な坂だったそうだ。公民館にいたお年寄りが「友達のじいさんがそう兵衛さんだった」と、小字図のそう兵衛坂を見ながら話していた。

キチノザカ:普通の坂。「吉の助さんがいたかも。」と話していたが、本当のことはよくわからないらしい。

 

その他諸浦以外の小字について話されたこと

小字

   寺の上:寺の上にはお寺があったのでそういった小字名がついている。今でもその寺はあるらしい。

   高江:昔高江には城があったらしい。現在発掘調査が行われている。

   十丈瀧:昔ここには瀧があった。今はなくなっている。

 

田について:諸浦には昔から雨が少なく、水の便が悪いところだった。そのためこのあたりには多くの溜がつくられた。諸浦では、湿田のことをフケタ(ふけ田)といい、乾田のことをカタガリという。昔はどちらの田もあったが、いまではふけ田はなくなってしまって、すべてカタガリになっている。また、田は収穫量などによって、ジョウデン(上田)、チュウデン(中田)、ゲデン(下田)の3段階に分けられていた。特に水がほとんど届かないような悪い田をヒアケタとよんでいた。

 

諸浦の酒造業:諸浦には酒造業を営んでいる家が3件あって、酒造が有名だった。その3件とはタキノハナ、カケモチ、コワタヤという酒屋で、タキノハナとカケモチは近くのコウヘイ(公平)といわれていた水源の水を汲んできて酒を造っていた。コワタヤは、自分の家の井戸の水を使って酒を造っていた。今ではこの3件はなくなっており、諸浦で酒造業を営んでいるところはない。

 

牛、馬について:牛がいないと農作業はできなかった。諸浦の農家では、昔はどこの家でも必ず2頭以上の牛を飼っていた。諸浦で飼われていたのはほとんどが牛で、馬の数は少なく、馬は田仕事には使われず、荷車用だけに使われていた。牛には子を産ませるコモタセという牛と、田仕事などに使うシエキという牛の2種類がいた。諸浦ではコモタセの産んだ子を市場で売って良い収入源になっていた。昭和30年頃からは、諸浦の農家でも機械化が進み、トラクターやコンバインを使うようになり、次第に田畑から牛の姿が消えていった。それでもしばらくの間はコモタセで収入を得ていたが、現在では牛や馬を飼っている農家はなくなってしまった。

 

諸浦の祭り:諸浦では土手祭り、春祭り、氏祭り、盆祭りが行われていた。

       土手祭り;土手が何度も崩れていたので祭りが行われていた。人柱を立てていたらしい。

       盆祭り;盆には綱引きをしていた。この綱引きは県道で綱をひいた。15日には子供だけで綱引きをして、16日にはみんなで綱引きをした。そして最後に綱を川に流していた。この祭りの準備に5日くらいかかっていた。昭和50年ぐらいまで綱引きは行われていたが、子供の数や人口の減少や、県道を使う許可が下りなくなったため、今では行われていない。

 

現在の諸浦:昔はどこの家でも米を栽培しており、その副業として炭焼きや茶碗などの焼き物をしている家もあった。しかし現在米だけを栽培している農家は諸浦には2,3件しかなく、その他の農家は米の他にたばこ、ハウスみかん、イチゴなども栽培している。しかし、諸浦でも後継者不足に悩んでいる。農家の子供はその多くが農業以外の仕事、郵便局や、役所、共済組合などに就職して、日曜百姓をしている。若い人が一生懸命農業をしているのは、2,3件しかない。

 

 

話者;公民館に集まった農家のおばあさん(名前を教えてもらえなかった)

しこ名のようなのはあまりよくわからないらしい。しつこく聞いていると1つだけしこ名らしい名前を思い出してもらった。

チャワンガマ:茶碗を焼いていた窯があった付近



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