玄海町仮屋について

1ED98015      肝付  祐子

1AG98239      山岡  由希

 

村の名前:玄海町仮屋

話者 : 岩下  初(大正15年生まれ)

 

1、仮屋の生活

 

この仮屋地区は、海沿いの村であるがために、昔から漁業中心の生活を送ってきた。そのため水田はほとんど存在せず、各家庭が食べることができる程度の若干の米作りしか行っていない。以前は麦、芋、大豆といった畑作の収穫がかなり多かったらしいが、現在はそれもほとんど行われていない。さて、漁業に話を戻してみよう。

昔から、ここでは夏にイワシ漁、そして冬にちりめん漁がさかんであった。取れたイワシは、シメバと呼ばれる場所に運ばれ、いわし油として加工されたそうだ。しかし、現在の主力は、タイの養殖である。これは、原子力発電所建設の際に譲渡された保証金をもとに始めたものである。それ以来、この仮屋はタイの養殖を中心に成り立ってきたと言えるだろう。

 

 

2、漁業以外に現金収入はあったのか。

 

昔は‘ジャアゴリ’と呼ばれる駄賃稼ぎを行っていたらしい。この‘ジャアゴリ’とは、魚売りのことで、仮屋の女性たちは‘テボ’と呼ばれる竹籠に魚をつめて、農家へと売りにいっていた。しかし、冷蔵の完備されていないなか、鮮魚を売ると言うのは非常に難しく、売れずに泣き出してしまう女性もいたそうだ。

 

 

3、水利と水利慣行

 

前述したとおり、仮屋は海の村であり、水田が存在しない故に用水網などと言うものも当然存在しない。しかしここは湧き水の豊富な村で、水道が引かれるまでは5個所から湧き水を取り入れていたらしい。また、この水くみは子供に与えられた仕事で、学校が終わると水を汲みにいき、`ハンドウガメ’と呼ばれる貯水がめに移すということが日課となっていたようだ。

 

 

4、仮屋で行われていた漁業について

 

前にも記述したとおり、仮屋での主な現金収入は漁業であった。夏には定置網、えび網などを使ったイワシ漁が行われ、冬には流し網によるちりめん漁が盛んであった。漁業の形態は‘網元・乗り子’制によって成り立っており、網元が船や網を所有、そして乗り子は漁の際に網元の船に同乗していたらしい。漁業を生業としていた仮屋では、、乗り子のように個人で船を持っていなくても生きていけるほどに海での収入が大半を占めていたという。今では網による漁は少なくなり,代わってタイの養殖が村の収入を支える貴重な収入源となっている。初期の頃は京都からわざわざ注文がくるほどの人気だったということだ。

 

 

5、“仮屋”の起こり

 

仮屋が開ける起点となったのは、西仮屋の一角にあったといわれる‘ジュウゴロサンクンチ’と言うほこらがあったあたりらしい。そしてもう一つ、仮屋の発展に重要な役割を果たしてきたのが、有浦川にかかる仮屋橋である。橋が架けられる以前、有浦川は仮屋の人々にとって唐津の魚市場へ魚を売りにいく途中に横たわる、最大の難所であった。当時は新田側に文吉と言う船頭がいて、渡し守をしていたらしい。明治30年に初めて橋ができるまで、現在橋の有るあたりは、船頭の文吉という名前に由来して`文吉渡し’と呼ばれ人々に親しまれていたと言う。

 

 

6、“仮屋”のいわれ

 

その昔、藤原広嗣が太宰府に左遷されたときに、松ヶ崎に立ち寄ったと言われる伝説があり、広嗣が‘仮の宿’をとったことから、‘仮屋’と言う名称が付いたともいわれている。

 

 

7、“仮屋”の祭り

 

藤原広嗣も立ち寄ったと言われる松ヶ崎には、神社が祭られており、旧暦の9月9日

になるとワッカシュウ(若い衆)達が船で仮屋から松ヶ崎まで繰り出し、神社で酒を飲んだりすもうをとったりして祭りをするという習慣が戦前から続いている。また、仮屋と石田の合同で行われる三島神社での祭りも、毎年恒例となっている。9月29日に最も近い日曜、何十そうものお伴船を従えて、おみこしを乗せた新しい船を先頭に、船の行列が仮屋湾沖を輪を描いて進むという優雅な祭りらしい。

 

 

 

8、各しこ名の由来

 

タタミイワ

仮屋港の入り口(小字高岩)には、‘タタミイワ’、‘ハナレダタミ’と呼ばれる2枚の巨大な岩が有る。20メートル以上もある1枚岩であるために、‘タタミイワ’と呼ばれるようになったらしい。

 

 

シシノクチ

小字魚の浦には、‘シシノクチ’と呼ばれる仮屋への入り口がある。その景観がまさに獅子の口であるために、こうよばれるようになったらしい。

 

トリツキマツ

現在の納骨堂周辺は、昔は墓地だったらしい。おそらく墓地の近くという地理的条件も手伝って、その付近にあった松が‘トリツキマツ’と呼ばれるようになったのだろうということだ。

 

キャアドウ

本来仮屋地区を東西に走る大通りを‘カイドウ’と呼んでいたのだが、親しまれるうちになまって‘キャアドウ’になった。

 

 

9、今後の仮屋のゆくえ

 

敗戦以来、各地に出兵していた若者達の復員により、ここ仮屋の人口は増加傾向

にあった。しかし、近年の少子化に伴い、他の地域と同様、人口減少の影響をうけて

いることは確かである。とはいうものの、この減少傾向が問題になっているわけではない。この仮屋地区は、玄海町の中でも比較的裕福な村であり、過疎化のおそれはないようだ。すなわち、これ以上の人口減少はありえないということである。また、この地が海に面した村である以上、今後も漁業中心の生活を続けるということは

言わずと知れたことだろう。もちろん、その主力は、前述したとおり、タイの養殖である。いつまでも、その仮屋らしさを保ちつづけ、伝統ある村として名を残して欲しい

ものである。

 

 

10、しこ名一覧

 

*田畑

何度も述べたとおり、この仮屋は海に面した村であるがために、田畑自体           はほとんど存在しない。ゆえに田畑のしこ名はない。

 

*ほか(浜、岩など)

小字  高岩のうちに      タタミイワ、ハナレダタミ

小字  経塚のうちに      アカバタケ、コッポヤボ

小字  魚の浦(イオンナ)のうちに    シシノクチ(獅子の口)、ニシガタ(西方)

小字  天狗嶽のうちに    テランシタ(寺下)

小字  仮屋のうちに      ジュウゴロサンクンチ、ナックミ、エナカ(江中)

小字  十倉(ジュグラ)のうちに      ヒガシガタ(東方)

 

 

<番外編・石田地区仮屋港沿岸部>

小字  名切のうちに      ウラガシラ(浦頭)

小字  津賀根のうちに    ウシテバ

 

*松の名称:松の名称をしこ名と言うのかどうかはわからないが、この地域でのみ                  通用する名称であるため、記載することにする。

小字  魚の浦(イオンナ)のうちに      サクイチ松、センニチ松(千日松)

小字  天狗嶽のうちに   トリツキ松

小字  高岩のうちに    オサカケ松

 



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