【東松浦郡玄海町仮立】

歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート

1EC98216 武田 祐貴

1EC98261 山崎 秀則

 

話者:片山 愛二さん

 

1.はじめに

火曜2限の周辺教養科目ということで、特にこの“歩き、み、ふれる歴史学”という科目に興味があったわけではなかったが、何気なく選択して、何気なく佐賀まで行ってしまった我々だが、町の人の話を聞いているうちに意外と面白いことに気づいた。

そしてしこ名以外にも色々と聞いて、歴史の面白さ深さを感じることができた。このレポートでそういう我々の体験を記そうと思う。

 

2.我々の一日

我々は、仮立のことに詳しい片山愛三さんにお話を伺った。そこでまず仮立の水田の移り変わりについて話をして頂いた。片山さんによると、昔は川沿いの平らな所に位置する湧き水が湧く“湿田(ふけた)と呼ばれる所に水田があったらしい。(写真@アリ、原本は佐賀県立図書館所蔵)そしてその後、灌漑の技術が発達して、他の地域にも水田が普及し、さらに現在では区画整理が行われて生産量を上げている。

また昔の米の貯蔵方法を伺ったところ、「セコ」と呼ばれるもみの貯蔵庫を利用していたそうだ。セコというのは、木で組んだ貯蔵庫の木と木の間のすき間に杉の葉を詰めて、ネズミが入らないようにしたものらしい。また、もみのままの方が米にして保存するよりも、保存状態がいいという。

次に村の歴史について伺った。仮立は初代唐津藩藩主、寺沢志摩守広高(てらざわしまのかみひろたか)という人が支配していたらしい。彼は防風林を作って村に貢献した。そして、そこが現在の虹の松原となったらしい。また水田の整備も積極的に行い、村の農業にも大変貢献した。今の仮立があるのも彼のおかげだと言っても過言ではない、と片山さんは語る。

次に、村にあるその他の農林業の歴史について伺った。昔、村の森林は殆どが共有林だったが、あまり豊富ではなく雑木林ばかりだったそうだ。薪等も取れず、薪は個人の林で賄っていたらしい。しかし戦後、共有林は個人に全て売り渡され、今では全くないらしい。その他の農業としては、タバコ、百合球根、養蚕が盛んだったらしいが、今では球根、養蚕は全く行われておらず、タバコの生産のみがまだ残っている。(写真ABアリ)

 

3.しこ名一覧

小字仮立のうちに

・ヤマムラヤシキ(山村屋敷)…昔の庄屋が住んでいた。今では記念碑がある。

・ジョウノヤマ(城ノ山)…城の跡は見られない。その他は不明。

(写真Cアリ)

・テンジンノヤマ(天神山)

・モウダシ(孟多子)

・キジノオ(雉尾)

・タチキ(立木)

・ノナカ(野中)

・タキノシタ(滝ノ下)…昔の湿田があった。

・ゴウヤ

・タケヤマ(竹山)又はヤクシヤマ(薬師山)…片山さん家のことを村の人々はこう言うらしい。薬師山というのは薬師如来に関連。(写真Dアリ、省略:入力者)

 

4.日本の農業の将来

自分たちは農家の人が今後の日本の農業についてどのように考えているかを尋ねた。すると日本の農業における問題、あるいは矛盾点について話して下さった。世界的に見ると飢饉で死ぬ人が非常に多い国がある。または人口の増加によって、より多くの食料が必要になってきている。一方でなぜ日本は減反を行うのか。なんとか日本で余っている米を食糧不足の国へ渡す方法は無いのか。経済の利益、不利益だけを考えて農業政策を決めているのは、いささか疑問であるということだった。自分はこの話を聞き、農家の人が利益だけを求めて農業しているのではないと知り、とても感動した。このような農家がいるということ考えて、日本は農業の政策を行っていく必要があると思う。つまり今後、国内のことだけを考えるのではなく、世界の中の日本としての農業を行うべきだと思う。

 

5.編集後記

今回の実習は3軒目に訪ねた家で詳しく話を聞くことができ、思っていたよりスムーズにできたことが非常に嬉しかった。また農家の人から直接今後の日本の農業について聞けたのが良かった。「4.日本の農業の将来」の後半でも触れたが、利益第一の農業している人ばかりでは無いというのがとても印象に残っている。約3時間も話をしていただいたのだが、自分にはとても短く感じた。この調査に於いて、いきなり訪ねて行ったにも関わらず、わかりやすくそして親切に話をしてくれた片山さんにとても感謝している。



戻る