【東松浦郡玄海町石田】 「歩き、み、ふれる歴史学」現地調査レポート 1AG97115 鈴木洋太 1AG97119 石田英和
調査日時 平成10年6月28日 調査地 佐賀県東松浦郡玄海町石田 話者 山口 米男さん(やまぐち よねお:昭和3年生まれ) 山口 光夫さん(やまぐち みつお:昭和5年生まれ)
村落の名の由来: 津賀根に石田様の石小積(いしこずみ)というものがあり、また、庄屋の名称が石田屋であったことに由来するらしい。昔は石田三成と関係がある、と言われていたらしいが、実際のところ関係はなかったそうである。
字: 穂盛(ほもり) 大霜(おおじも) 名切(なきり*字は石田だが、土地の所有者は仮屋の人が多い。土地の所有者によって、石田名切、仮屋名切と分かれている。) 清水(しみず*石田地区の中心地) 立花山(たちばなやま) 永田(ながた) 北目(きため) 大久保(おおくぼ) 石久保(いしくぼ) 津賀根(つがね*石田様がある) 名古根(なごね) 尊田(そんだ) 上場(うわば) 中の谷(なかんたに) 大丸田(おおまるだ) カツタリ(*カッタリ、もしくはガッタリと人によって発音が違う。) 入川内(いりかわち) 山の田(やまのた) 六畝(ろくせ) 大谷(おおたに) 花の木(はなのき*字は石田だが、石田部落から独立した。) 惣兵衛坂(そうべえざか) 三島(みしま*三島神社がある場所。現在、神社所有は玄海町である。) <その他> 大字石田からは、「花の木」が部落として独立したほか、大丸田と中の谷の一部に戦後18から29戸の入植が始まり、「栄(さかえ)」という部落が誕生した。その後開発が行われ、大久保、北目、永田、山の田、大谷、六畝、石久保、上場、中の谷、入川内の一帯に「石田関地区(いしだかんちく)」、中の谷、入川内、カツタリ、大丸田の一帯に「栄関地区(さかえかんちく)」が形成された。
田ん中の名前: タナカ(*田中さん所有からきているらしい。) イチマイダ(イチマイ田) カンノンダ(観音田*近くに観音堂がある。) リュンソンナン モタセ シモバ(下湯*川沿いにある。) エノシモ ショヤダ(庄屋田*村の庄屋だった「石田屋」が所有していた。) マエダ(前田) ババンツジ ドンサカ ロカジ(櫓舵) <石田の田ん中> 石田地区は、山の斜面にあるため棚田が多く、田ん中一枚当たりの大きさは、平野のそれと比べてかなり小さく、また枚数も多い。石田地区では、その田ん中の一枚一枚に名前がつけられていた(庄屋田は例外)ので、しこ名もかなりの数が存在していたはずである。しかし、自分の耕作する田以外は「何々さんの田ん中」という言い方をしていたので一人が知っているしこ名の数は、7、8個程度だそうだ。今回の調査では、しこ名に詳しい区長の方をはじめ地区の半分以上の方々が旅行に行ってしまっていただけではなく、地区の過去を知る老人のほとんど亡くなられてしまっていたので、思うようにしこ名が集められなかった。また、話を聞いてわかったのだが、石田地区は、自分たちが思っていたよりも広かった(実際行く前は、集落の周囲2、3kmぐらいまでが範囲だと思っていた。)ので、2人で調べるには、時間が少なすぎた。事実、山ロ米男さんにも「2人で調べるには、石田(地区)は広すぎるよ。」と言われた。 <その他> 田ん中ではないが、現在牧場として利用されている土地が、道路を挟んで「中山(なかやま)」、「木場(きば)」と呼ばれている。
村の水利: 昔は、雨水に頼るしかなかったそうだ。台地であるために水が溜まりやすいために、この石田地区は大小いくつかの溜め池がありそれを農業用水として利用してきた。特に大きな溜め池を「石田上溜(いしだうえだめ)」、「石田下溜(いしだしもだめ)」、「花の木溜(はなのきだめ)」といい、これらの溜め池が涸れてしまうことは死活問題であったが、水のことで争いごとが起こったことはなかったそうである。雨が降らず、水涸れの心配が大きくなってきたときは、「石田上溜」と「石田下溜」のあいだにある「牛神様(うしがみさま、うしがみさん、ぎゅうじんさん)」において雨乞いをしたそうである。その雨乞いは盛大なものだったらしく、大きな太鼓やかねを打ち鳴らすものだったらしい。昭和38年頃、有浦川から水を引くために、諸浦橋近くにポンプを設置し、水は標高168.4mの小高い山まで汲み上げ、土地の傾斜を利用し自然流水させて「石田下溜」まで水を運ぶ工事が行われた。この工事では、鉄のパイプ管を埋設したりするとき、機械が入らないために鉄のパイプ管や生コンを人力で運んだそうである。この設備は4年前まで使用されていた。使用されなくなった訳は、減反政策によって農業用水の使用量が激減したことである。ほかには、花の木の近くの川からポンプで水を汲み上げ、道路の下に埋設してある水路を利用して「石田下溜」まで水を運んでいる。これは現在でも利用されている。
村の耕地: 石田地区は、土地の傾斜が大きいため、田んぼはいわゆる棚田である。そして、その一枚一枚が非常に小さい。昔の庄屋の田しか大きい田はないそうである。村を歩いてみたところ、大きな農業機械を入れるような倉庫は見当たらず、自給用の米だけを栽培しているに過ぎないということである。(自給用のことを「飯用(はんよう)」といわれた。)畑は少しあるが、ほとんどがみかんの果樹園や牛の飼料畑として利用されている。みかんはハウスものと路地ものの両方が栽培されている。また、牧場としても利用されている。
村の道: 昔は、大きな道がなく移動にも苦労したらしいが、集落の中心を通る「石田里道(いしだりどう)」がつくられてからかなり楽になったそうである。現在は、石田里道の上に舗装道路がある。(実際に見たところ車が一台しか通れないような道であった。)この石田里道がつくられたことを記念して、牛神様の近くに「石田里道記念碑(いしだりどうきねんひ)」が建立された。また、有浦川の支流にある用水機庫近くの道路と上場から花ノ木へ通っている幹線道路の地下には、用水路が通っている。
村のこれから: 現在、石田地区で生産されている農作物は、米、肉牛、みかんである。過去には林業もやっていて、かなり儲かっていたということもあったらしいが、外国からの安い木材の輸入もあって今ではやっていない。このため「山林は荒れ放題だ。」と嘆いている方もいた。 さて、稲作のほうはというと、就農者の高齢化と後継者不足で見通しは暗いようだ。実際、今ある水田は、自給用の米を作っているだけらしい。やはり、「山間地での農業はだめだ。」と言われた。畑作の方も飼料用だけじゃだめであり、みかんもだめだということであった。畜産のみがどこまでいけるか、といった可能性を残しているだけということだった。
感想: 今回の現地調査は、前日にアポイントをとっていた区長さんが、当日旅行に行くために調査に協力してもらえないことがわかったので正直言って苦労した。他の人を紹介してもらおうとしたが紹介してもらえなかったため、現地を訪ねまわり、1時間ぐらいして、ようやく調査に協力してくださる方に出会えた。突然のことであったのに、話者の方々にはいろいろと協力していただけたことに非常に感謝している。もちろん、紹介していただいたおばあちゃんにも感謝している。そのために、お話を聞く時間がおよそ2時間しかなかったので満足のいく調査はできなかったが、田舎の人の温かさを肌で感じることができたことはいい経験になった。ただ5000分の1の地図が古かったために、地図におとすことが難しかったのは自分たちの準備不足であった。 |