【東松浦郡玄海町藤平、大平】

歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート

1EC98233 西崎 望

1EC98257 本川 喜庸

 

話者:中島 敏雄さん(大正13年生まれ)

 

1.村の地名、他

(1) 小字:

   フジヒラ(藤平)、オオヒラ(大平)

(2) 通称(しこ名):

ツバキノキ、カミノマエ(昔の庄屋の藤田さんの田)、コゴヤシキ、ノチキ、

ムラノマエ(村の前)、モチダ、トンノウラ、トンノカゲ、オオダコヤマ、

エンドウ(今は45年前に建設されたダムの下)、ヤジロ(同じくダムの下)、

マノカシラ(旧公民館の前の田)

(3) クリーク:

特にクリークはない。

(4) 水路:

昔は谷の水を運ぶために、野や山の土を掘って溝を作り水路にしていた。

(5) 堤防:

昔は有浦川沿いのオオヒラやヤジロなどに堤防があったが、今はダムの下になっている。その堤防には特に名はない。

(6) 草切り場:

草切り場は村の数ヶ所にあった。特にその場所の呼び名はない。

 

2.村の水利

昔は村の田んぼの真ん中にソデキリ(袖切)川と言う川が通っており、主にその川から引水していた。そして足りない分は谷の水などを、土を掘って溝を作り水路にして引水していた。しかし今から45年前に田んぼの整備事業によってソデキリ川はなくなった。今は同じく45年前にできた藤の平ダムや唐津市の中尾、玄海町のカンムラという所に大きなため池があり、そこから水をモーターなどで用水して各田んぼに引いている。田んぼの整備事業を行ってダムなどから水を引くようになってから、付近の轟木やその他の地域などと水利のことで揉めるようになった。他に大正12年に有浦川発電所のため池ができたが、これは農業用水を引くためには使われなかった。4年前の大渇水の時は、政府からの補助で用水機とかで川から水を汲み上げて、各田んぼに運んでなんとか凌いでいた。この大渇水が50年前だったら、田んぼに地割れが起こって全く米が取れなかっただろうという。

 

3.村の耕地

昔この村では、床屋さんの藤田さんの持っていた田がやはり米がよく取れた。あまり米の取れない田というのはあった。場所による差があるのは、水をよく引くことができるかどうかで差がでた。湿田は数ヶ所ある。戦前は大体反当り56俵ぐらい取れていた。化学肥料が入った後では、あまり土地によっての差はなくなった。戦前は牛を飼うときに使った敷き藁を発酵させたり、野原から草を取って発酵させたりして肥料にした。

入り会い山は村の数ヶ所にあった。燃料の薪は山から竹を取って使っていた。

 

4.村の道

昔の道と今の道ではそれほど変化はない。昔は古道から村に富山の薬を運んできたり、田から収穫した米を個人で唐津の商人の所まで運んで売ったりしていた。

 

5.米の保存

米は脱穀して天日で乾燥させてモミデコウテと言われる大きな箱に入れ、倉庫の中で保存する。

 

6.村の過去

50年前は水田の裏作として、小麦は基より、なたねやはだか麦なども作っていた。

 

7.村の伝統

村では毎年の伝統行事として、夏に村の神社で豊作祈願としてお祭りをする。そして馬頭観音でも豊作祈願のお祭りをする。

 

8.村のこれから

村ではこの45年で急速に変わった。田んぼの整備事業を行ったり、有浦川上流に藤の平ダムが建設され、そこにあった有浦川発電所などは廃止されたりした。藤の平ダムの水は玄海町を始め、肥前町、鎮西町、呼子、唐津市など広い地域に水を供給している。村では戦後年が経つにつれて専業農家の割合が減って、兼業農家が増えている。今は村の13軒のうち4軒だけが専業農家で、残りは兼業農家である。兼業農家では男性は役場、大工、土建業の日雇いやJA、女性は保育園の保母さんや看護婦、小学校の給食のおばさんなどの仕事をして生活している。村ではこれからも専業農家は減り続けるだろうという。

 

9.感想

玄海町藤平地区での現地調査を終えてみて、村が狭いせいもあったがしこ名があまり集められなかったのは残念であった。しかし、話を伺ったり道を尋ねたりした村の人たちは、本当に気さくで親切な人たちばかりであり、都市では自己中心の人々が多いというのに、田舎には温かい人柄の人が多いのだなと感じた。今回の調査は、自分たちにとって大変有意義なものであったと思う。



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