歩き見触れる歴史学現地調査レポート

 農学部  1ag97123   高橋 将晃

         1ag97134   谷口

調査地…佐賀県 玄海町 花ノ木

調査に協力してくれた人…八島 正人さん(やじま まさと)  82 

                                  大正411月生

                        八島 常雄さん(やじま つねお)  73 

                                  大正141月生

                        加藤 一さん  (かとう はじめ)  73

                                  大正141月生

T】通称地名(しこ名)について

 今回調査した花の木という場所は思っていたよりも狭い地域で、調べるにあたってなかなか骨を折った。もともとこの花の木は石田の一部分で、文化7年に石田からの開拓者がいまの花の木の場所に移り、独立して花の木という部落をつくったらしい。それで、ここ

は大字石田、字花の木という。

 最初、直接、この地図に載っていないこのあたりだけの呼び名というか、しこ名みたいなものはありませんか、と聞くと「特にはないなあ」といわれた。しかし、いろいろと話をしていくうちに僕たち二人には分からない言葉が、たくさんでてきてその言葉一つ一つについて詳しく聞いてみると、それがしこ名であるということが分かった。しこ名以外にもいろいろな道具の名前などもあったが、ここではあえてしこ名と思われることについて挙げてみる。

 

オック(奥)、マブシ(当て字なし)、イチミャーバタ(一枚畑)

サンカク(三角)、ゴセエバタ(五畝畑)、ロクノセ(六畝)、

ナナセ(七畝)、ハチノクボ(八の久保)、ココノセ(九畝)、

 

 などである。その外に、しこ名ではないと思われるが、栄のところに1区、2区、3区と呼ばれるところもあった。

 

・『オック』とは、栄の3区にあたる場所で、花の木からすれば『奥』の方にあるということで『オック』と呼ばれるみたいだ。

・『マブシ』については、詳しい話を聞くことができず、どうにかそれらしい場所だけを教えてもらった。

・『イチミャーバタ』とは、『一枚畑』とかき、一枚と数えられるぐらいの大きさの畑がある場所をさしているらしく、本当に狭いところみたいだ。

・『サンカク』とは、道と道とに挟まれた『三角』形の畑がある場所をいうらしい。地図で見てみても、本当に『三角』形である。

『ゴセエバタ』、『ロクノセ』、『ナナセ』、『ハチノクボ』、『ココノセ』、については特別な理由はないらしい。

 

  ただここで、字 六畝 をしこ名の一種として扱っているのには、ある理由がある。

  一枚畑、三角、五畝畑、七畝、八の久保、九畝、というように1から9までの数が、この周辺のしこ名に使われている。それで、六畝もそうではないのかということになり、とりあえずしこ名として扱ってみた。しかしながら、24にあたる部分は昔はあったかもしれないが、今ではそれを知っているものがいなくて、残念ながら聞くことはできなかった。

 

   今回聞いたしこ名は、だいたいが畑の場所を示すものだった。はじめは、水田のつもりで話を進めていたが、一枚畑という字をみて「このしこ名がついている場所は畑ですか」と尋ねると、そうであるということが分かった。基本的にこのあたりは、山間部なので水田があまり発達せず、牧草などを育てる畑が最近では多いらしい。ほかに、「畝」という字は、畑の広さをあらわすもので、1畝が1アールぐらいの広さがある。1から9までの数字を使っているのは、畑の広さにも関わっているみたいだ。

 

最後に、なぜこういったしこ名が使われるようになったのかとたずねると、昔から伝わっているから、という答えが返ってきた。それに付け加えて、字(あざな)でいうと場所が広いので、しこ名でいうと細かい場所まで分かり、だれだれがどこで仕事をしているのかをすぐに知ることができるから、ともいわれた。

しこ名と簡単に言っているが、一つ一つのしこ名にいろいろな意味が含まれているということがよく分かった。そういった言葉が、どんどんなくなっているという事実に、残念な気がした。

 

U】飲み水について

  現在飲み水は、有浦川などからポンプを使って引かれている。しかし、それ以前の水の取得は、各家庭に井戸を掘り、それから水を取得していた。

 

V】田んぼの水利について

  昔から、この地域は水の得やすい地域なので水について困るようなことはなかったようである。田んぼが作られている場所は、湧き水が出る場所であるので、水を争ったりすることもなかった。4年前の大渇水のときも、飲み水で役場からの配給が一部あったくらいで、そんなに深刻ではなかったようである。しかし、栄に引く水を確保するために、中の谷に井戸を掘ったところ、そのためにそれより川下の水が減ってしまい、水不足になった所もある。

 

W】乾田と湿田

主に乾田と湿田は次のような所に点在していた。

   乾田・・・・・・入川内(いりかわうち)、中の谷(なかのたに)

   湿田・・・・・・他の地域

 

X】村の道

   村の中央を通る「チカサン」という道が一番古いということだった。かつてこの道は今でいう中学校への通学路で、この道を使って、米、麦などが運ばれていたようだ。さらに、この道の上を、次のような交通手段が用いられていたようだ。

                         馬や牛 土車(ドグルマ) 牛車 リヤカー

   という順番で、交通手段が変わっていったようである。最初は、馬や牛に直接米などを載せていたようで、八島常雄さんの話では、一頭の馬に60キロの米を8俵載せたこともあるということだった。次に登場したのが、『ドグルマ』と呼ばれるもので、松の丸太の木を半分に縦に切り、それに穴を開け、心棒を通して車輪をつけたもので、全部が木製で、車輪の継ぎ目もすべて木製で出来ていて、摩擦があり、松ノ木自体の重さもあるので大変重かったようである。次に出てきたのが、牛車であり、だんだんと技術が進んで、リヤカーが登場してきたようだ。その間の、技術の進歩は労働の負担を軽減するのにかなり貢献したようである。

 

Y】米の保存 

   家で食べる米の保存方法は、この花ノ木では、独特の保存方法が取られていたようである。モミ蔵庫という所に設置された、『セコ』と呼ばれる、四角形の木製の箱の中に、皮をはいでいないモミのままの米を入れて保存するという方法を取ったようである。皮を剥ぐと虫がついてしまうので、モミのまま保存するということだった。

   また、『セコ』と呼ばれる箱は、それを専門に作ってくれる所があり、そこで購入することが多かったようである。さらに、時間が進むと、木製の箱から、トタン板の箱に変わっていったようである。

 

Z】村の過去

   50年前の現金収入は、主に『カミスキ』と呼ばれる、和紙の製造が行われていたようで、ほとんどの家々で、板上に紙を干している光景がみられていたということだった。また、他には、炭焼き、林業、日雇いなどで現金収入を得ていたようである。

 

[】花ノ木の成り立ち

   花ノ木は、文化7年に石田から独立したといわれている。当初3人で開拓を始め、次に4人が加わって開拓を進めたという記録が残っている。開拓は、米と麦で行われた。また、隣町の栄は終戦後出来た村で、一番新しく、花ノ木と石田の共有地を提供して、開拓された村である。これは、話によると、戦後社会党の政権下での農地解放の余波であり、共有地の提供はどちらの村にとってもかなりの負担だったようである。

 

\】花ノ木の移り変わり

   勤め人が多くなったということがいえる。いま、農家が14件あるが、専業農家は4(内、畜産は2件)、兼業農家は10件である。今の時代では農業収入だけでは生計を立てることは不可能であるというのが、農家の減少の理由といえる。また、後継者については、あまり困ることはないということだった。しかし、農業の後継者というわけではなく、農業はしないが家は継ぐという意味である。農家に関する嫁不足の問題がここでも深刻になっていた。実際、農業をすると嫁はきてくれないが、農業以外だと嫁がきてくれるということであった。

 

]】これからの日本の農業について

   これからの農業は産業としても成り立たないというのが、3人の意見だった。特に花ノ木のような山間部では大規模な農業経営は不可能であり、さらに畑や田んぼでの作物は付加価値が低く労働力は多く必要なので、厳しいのではないかという意見だった。

 

感想   

  今回の調査は、地元の人の協力が大いにあり、こちらが驚かされた。到着が30分以上遅れたので、遅れた旨を電話してみると、既に公民館に集まっているということだった。公民館に着いてみると、わざわざ3人の方が集まっていてくれて、お茶と茶菓子が用意されていた。用意してきた地図がたいへん見づらく、さらに5000分の1の地形図はだいぶ古く、現在の道路の配置図とかなり違うので、混乱してしまって結局5000分の1の地形図には、聞き取ったことを落とすことが出来なかった。代わりに住宅地図に落とすことにした。比較的住宅地図は新しく道路も現在の位置に近いものが記されていたので、相手の方も場所を確認しやすく、住宅地図を中心に進めた。最初、しこ名を教えて欲しいと尋ねたところ、「小字以外は、昔からここら辺では使っていない。」  と言う返事が返ってきた。これには最初戸惑ったが、しこ名の調査は後にまわし、一時他の調査を先に行うことにした。調査の過程で、いろいろと話が進むと、次々に初めて聴くような固有名詞が出てきたので、随時メモを取り後で聞くという方法を取った。

 

  今回の調査の反省点を次のように挙げる。

1)  調査に使う地図はなるべく新しいのを使う。

2)  拡大した地図を用意する。

3)  なるべく多くの種類の地図を用意する。

 また、われわれの調査の前に、熊本大学の調査グループが調査に訪れたことがあるということだった。役場の資料もその時にかなり整理が進んだということだった。古文書があるので読んでみないかといわれたが、知識不足のために読めなかったことが残念だった。

  今回は調査がスムーズに進んだが、調査側の用意不足、知識不足のために調査が浅くなったのが残念である。

 

以上、今回の調査の報告を終わる。



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