佐賀県東松浦郡鎮西町横竹

 

1LT97150 宮本一幸

1LT97176 渡部史之

 

話者:平河良英(大正5年生まれ) 岩崎勝(大正2年生まれ)

 

〈村の範囲〉

村の範囲は地図上のピンクの線で囲んだ範囲である。

 

しこ名一覧

田畑

小字ニシダとムラの境あたりのうちに

ヒザコ

竹林・広葉樹林

小字カミワキのうちに

ナカオ

広葉樹林

小字クダリミチ(下り道)付近のうちに

ハル(原・春)

ウヅカンモト(大塚元)

 

・しこ名のハルの漢字については、「原」と書く人もいれば「春」の漢字を書く人もいるらしいが、正確には、「原」と書くほうが正しいであろうとのことである。(また、地図上に赤色で書かれているのは小字名、茶色で書いてあるのは山の名前である。)

 

〈昔の古い道〉

学校道は、地図上のだいだい色の線がそれである。学校道はだいたいウシロダ→ウシロダの辻→村下へとつながっていたらしく、道幅は約1mほどであったそうである。ちなみに地図では途中できれているが、だいだい色の線(学校道)をもっと南に下って行くと、打上学校があったらしい。また、昔は昔の古い道を通って呼子町からアラカブなどの魚が横竹村に入ってきていたらしい。

 

ちなみに、カミワキ(神脇)、オオイシモト(大石ノ元)、タテヤマ(立山)のあたりは、昔は雑木林であったらしい。

 

〈農業以外での昔の村の現金収入について〉

昔は農業の副業として、養蚕をしたり、葉タバコを作ったりしていたらしい。葉タバコに関しては、昔、干ばつで米がとれなかったために、横竹村の村長さんが昭和1718年くらいに葉タバコを取り入れたらしい。各農家ごとに葉タバコを23チョウほど作っていたらしい。昔は、20人くらい葉タバコを作っている人がいたらしいが、今でも78人いるらしい。また、いちごを副業として栽培している農家もあったらしい。

ちなみに、昔は各農家に最低一頭は牛がいて、牛にすきをひかせていたらしい。今では、牛を飼っているのは、それを専門的に行っている人だけだそうである。

 

〈村の水利について〉

横竹村には、これといった川がないため、昔は水田にかかる水は湧水から引水されていたそうである。そして、昔はここの水はどこのというように、水に関する村の掟があったそうだが、今ではそのようなものはなく、水に関しても個人的なものになったそうである。

また、過去には水争いもあったらしいが、それはほかの村との争いといった大規模なものではなく、横竹村の村人同士の個人的な小規模な争いであったらしい。

ちなみに1994年の大旱魃の年だったが、米ができなかったということはなかったらしい。というのも、今では国営の事業で打ち上げダムが出来ており、ウシロダの辻の水槽にダムから水を引いていたので、田には水が潤っていたためである。今では呼子町のカベシマまで水がいっているらしい。

 

〈村の耕地について〉

昔、良い田と悪い田があったのかはよくわからないが、最近では4月終から5月の初め頃に苗を植えて、早い時期にかってしまうので平均的に米がとれるそうである。なぜ、この様な早期作を行うのかというと、昔は6月の終から7月のはじめにかけて苗を植えていたらしいのだが、そうすると、収穫時期が台風の時期と重なり、また、夏だと水田の水が早期作に比べてより多く必要となるためだそうである。

また、昔は裏作として麦を栽培するほか、菜種をうえていたらしい(麦よりも主として菜種をつくっていたそうである)。菜種からは、菜種油を作っていたそうである。しかし、今では早期作のため、裏作をすることができず、休耕田が多いらしい。中には、いちごを栽培している人もいるそうである。ちなみに、なぜ裏作ができないかというと、裏作として植えたものの収穫時はちょうど台風の時期と重なるため雨が多く、植えたものが倒されてしむばかりでなく、夏の暑さのため、倒れるとまもなく芽が出てしまうため裏作はできないらしい。

また、戦前には、田の肥料として牛の肥やしや、人糞、尿を使っていたそうで、普通の田では1反につき56俵、良いところで7俵くらいとれたらしい。ちなみに、戦前には横竹村の人がもち米5升を呼子町へ持っていき、人糞と交換してもらっていたそうである。戦後になると、化学肥料が入ってきたこともあって、専門的に米を作っているところで、1反につき、8俵くらいとれるらしい。

 

ちなみに、横竹村は昔、ウワバダイチであったため、高低差が少なく、「佐賀県のチベット」と呼ばれていたそうである。

 

〈屋号について〉

横竹村には屋号はないそうである。

 

〈草切り場、切り野について〉

横竹村には、草切り場、切り野はないそうである。

 

〈祭りについて〉

横竹では、今では4月にユタテノギョウジ〈湯立ての行事〉という祭があるそうで、昔は2月に行われていたそうである。この際、ゴキトウ(ご祈祷)といって悪い病気が入ってこないように部落の境界にしめをはったり、オカグラマイといって、神主が片手に扇を持ち、多くの鈴を持って舞ったりするらしい。この「ユタテノギョウジ」については、「佐賀県の地名」(平凡社)に「湯かぶり」という名ででている。

また、ハツカショウガツ(二十日正月)という祭りがあり、部落を昔からの7つにわけ、もちを7升作り、もちまきをするそうである(今では、作るもちの数は違う)。ちなみに、もちまきの際、大根を干して、持ちの形に丸くして、粉をつけてもちと一緒にまくらしい。すると、大根ともちがゴチャゴチャになり、もちと間違えて大根をひろう人が出てくるらしい。ちなみに、まく人は厄年の人らしい。

また、ハツカショウガツの際、マトイソ()といって、裏に悪魔や般若の絵が描いてある的を、竹で作った矢で打つという行事も行われるらしく、これは厄払いや悪魔祓いといった意味があるらしい。

 

〈佐賀現地調査行動記録〉

 1221日、我々の調査はバスの降車場所を間違えるところから始まった。先が思いやられながらも、まずアポをとっていた坂口さん宅へと、住宅地図を見ながら足を進めた。地図のとおりに坂口さん宅へと来てはみたものの、その家屋は閑散として、人の住んでいる気配はない。とりあえず、付近の住人の方に聞いてみると、坂口さんは家を新築して、すぐ近くに引越しをしてしまったとのことだった。「家が新しいから近くに行けばすぐわかるよ」と言われ、教わった道を進むと、本当にひと目でわかる程、真新しく、豪華な家が、そこにはあった。高価そうなスポーツカーに、作業用トラックが2台、そしてトラクターが横一列に並んで入っている車庫に、3回建ての家屋。それを見た瞬間「農家は金持ち」という言葉を思い出した。スケールの大きさに戸惑いながら居ビリンを押してみると、坂口婦人が出てきて、坂口さんは農作業の最中ということだったので呼んできてもらった。しかし多忙の坂口さんは近所の80歳になるご老人、平河さんを紹介して、作業に戻られた。

 場所を平河さん宅に写、調査内容の概要を説明すると、「自分は昔のことはようわからん」と言って、さらにまた近所の83歳になるご老人、岩崎さんを紹介して、相手の家まで送ってくれた。我々はなんだか自分が迷惑をかけているんだと思い、恐縮していた。岩崎さん宅に到着したものの、当のご本人はご不在だった。仕方なく平河さん宅に戻り、ようやく調査を開始するに至った。

 話を聞き始めてしばらくすると岩崎さんがやってきて2人から話を伺えることになった。

 一通り調査を終え、平河さん、岩崎さんに例を言って失礼したその後、さらに調査を進めようと思い、ほかの人々に聞いて回ったが、みんな平河さんか岩崎さんを紹介するばかりで調査にならなかった。

 その後、地元保育園のグラウンドで時間を潰して、帰りにバスに乗り込んだ。疲れきっていた我々は当然のように熟睡。こうして眠りの中で我々の長い1日は終わったのでした。



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