佐賀県東松浦郡鎮西町八床

 

1EC95167 牟田将経

 

話者:岡部昇さん 昭和4年生まれ

 

・しこ名

田畑

小字松山のうちに

1ニシノタ(西の下) 2マツヤマノシタ(松山の下)

3ムカエ(向江) 4ミゾゾエ(溝添) 5ニタダ(仁田田) 6マエダ(前田) 7デグチ(出口)

8タシロジモ(田代下) 9ウヒラ(宇平)

 

小字平倉のうちに

10ヒラキダ(開田) 11ドウデ(堂田)

12ヒラクラ(平倉) 13ヒガクレ(日ヶ暮れ)

14ノナカ(野中) 15ナゴサコ(名古沙子)

16フカダ(深田) 17ヒラタノシタ(平田の下)

 

小字東前田のうちに

18ゲゴロウ(下五郎) 19イシワリダ(石割田)

20カミダ(神田) 21テラバタケ(寺畑)

22ヤトコノマエ(八床の前)

 

小字猿口のうちに

23オオサルグチ(大猿口)

 

小字杵田のうちに

24キネダ(杵田)

 

 僕は佐賀県の鳥栖市に住んでいるが、鎮西町というところには行ったことがなかった。いや、本当は通ったことはあるのだが、それは波戸岬までドライブに行くか、呼子にイカを食べに行く時の途中に鎮西町があったというだけで、この町自体に関心を示したことはなかった。それでも何回か通ったおかげでどういうところなのかという大体の雰囲気は分かっていた。

 降車地点に着いたのは10時半ぐらいだっただろうか。早速八床を目指して歩くことにしたのだが、とりあえずすぐ先にある駄菓子屋のような店に入って正確な道順を尋ねることにした。中は本当に30年以上前の駄菓子屋みたいだったが、商品は割と目新しかった。そして誰もいる気配がなかった。何回か「ごめんください」といってみたが、誰も出てくる気配がなかった。結局もう少し先にあるガソリンスタンドで道を教えてもらった。それから20分程車道沿いを歩いた。しかしどうもたどり着くような感じではなかったので、そのへんのおばあさんに聞いてみたら、どうやら曲がるところを間違っていたようであった。そしてもう15分ほど歩いて、やっと八床の部落についた。

 住宅地図を見ながらどの家を訪ねようか考えた。とりあえず一番近くの岸田章さんお家を訪ねることにした。インターホンを押して中に入ると、40代くらいの女性が出てきた。早速「私は九州大学の学生なのですが、今回はこの辺の田んぼについて・・・」と尋ねてみた。私は結婚してからこの土地に来たのでよく知らないとおっしゃった。加えて年配者はこの家にはいなかった。

 次に訪ねた家は麻生さんのお宅だった。麻生照夫さんと思われる60代くらいの方が出てきた。そして質問したのだが、この方も自分はこの辺に来てあまり長くないとおっしゃった。

 続いて区長さんである岸田賢治さんのお宅を訪ねた。しかし、岸田さんは農作業に追われていたため、岡部昇さんという方を紹介してもらった。

 岡部さんのお宅を訪ねると、岡部さんは高校駅伝を見ていた。僕が日頃みなさんが使っている田んぼの呼び名を教えてくれませんかというと、岡部さんは別の部屋から耕地地図のような地図を持ってきてくれた。精密な地図であった。僕の持ってきた地図と照らし合わせて、これは西の下だ、出口だという具合に、奥さんと2人で書き出してもらった。僕はほっとした。そしてカレーまでご馳走になった。

 焼き畑もかつて行われていたようである。八床においては焼き畑のことを絡焼(くりやき)と呼んだ。杵田付近及び野中、平倉付近で行われていたらしい。誰の土地だったということはなかったようだ。入り会い山についても存在していたらしく、大猿口近辺において少なくとも岡部さんは薪などをとっていたようだ。もちろん岡部さんの土地ではない。

 八床においては良田・悪田と呼ばれる田はなく、どこにおいても大体均等に米がとれていたということである。化学肥料が入ったのは戦時中で、それ以前は草をまいていた。まくというより草をふみこむと言ったほうが正しい。かなりの重労働であったらしい。またその頃には副業として養蚕、タバコの他、大豆を栽培していた。

 八床は小さな部落であるが、それでも4箇所に区切られていた。ただこのあたりでは小路と言わず、牟田谷というように谷(だに)と言っていた。牟田谷、仁田谷、佐古山谷、日が暮谷の4箇所である。詳しくは付属の住宅地図をご参照ください。

 村の道については現在使われている道と変わらないということであった。



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