佐賀県東松浦郡大浦浜

 

1AG98014 白尾謙典

1AC98126 田中恵太朗

 

話者:

山口陽太(大正4年生)

北川松男(大正9年生)

 

一日の行動記録

 

AM1040

バスから降りて歩き出す。

地図で行き先を確認して村を目指すが不安なので農作業をしているおじいさんに尋ねる。

AM1100

聞いた山を少し登ると海の見える大きな道へ出る。

地図で確認して海辺の村が目的の大浦浜であることがわかる。

段々の水田を横目にジグザグの坂をひたすら下る。

この時間農作業をする人々はほとんどいなかった。

AM1130

海辺に到着

これからの計画を練っていると区長の浜部繁雄さんと出会い、少し会話をして別れる。

お話を聞くとの約束まで時間があるので外に出ているお年寄りを探す。

AM1145

あまり人が外に出ていないので漁協組合に行ってお年寄りについて尋ねる。

一人漁師の北川松男さんを紹介してもらう。

海のしこ名についてお話をお聞きする。

PM1200

昼食をとる。

PM1230

山口陽太さんの家へと向かうがなかなか家を見つけられず時間を潰す。

PM100

山口陽太さんの家に到着

昔の村の様子についてお話をお聞きする。

PM200

おやつとスイカをご馳走になる。

PM230

山口陽太さんの言えをでる。

まだ時間があるので農作業をしている人を探す。

PM300

23人の人達に話を聞くが同じ内容のことしか聞くことはできない。

PM315

バス乗り場に向けて出発する。

山口さんから聞いた近道を進む。

PM400

バス乗り場に到着。

PM425

バスに乗り込む。

 

○しこ名一覧

海:ムカエウラ、イヌガメ、ツクラウラ、シモナカウラ、ホタテ、ビシロ、サヤノカミ、エビスウラ

 

陸:イッサカジロウ、シイノキザキ(椎の木崎)、ウラガタ、ヒガシ、トリイノハナ、ツジダ、ナキリ、ツジダのハナ、ウノサカ(兎の坂)、ウシノツノ(牛の角)

 

ウシノツノ(牛の角)・・・以前このあたりに松が生えており、その松の枝が牛の角のように尖っていたためこの名がついた。

 

トリイノハナ(鳥居の鼻)・・・この辺りには小さな神社があり、その鳥居を名前につけたようである。

 

○大浦浜:漁業2、農業1の割合で生計を立てている。

(漁業について)

天馬船に乗って31組で漁に出かけた。以前はちりめんじゃこ、いりこ、その他の雑魚がとれ、うなぎもよくとれていた。

しかし、昭和30年あたりから収穫が急変する。それは農薬散布のため農薬が海へと流れ込み、水が汚れてしまったためだと考えられる。

 現在は少し沖へ出てタイをとったり機船底引き網漁業でハゼ、ゴチエソなどをとり、はまぼこ(かまぼこのこと)に加工している。しかし近年、魚の収穫はだんだん減少しており、養殖が盛んになっている。養殖しているものは、なまこ・たい・はまちなどである。また冬のみもずくの栽培も行っている。あと近年なぜかテングサが繁殖し始めわずかな収入になっている。しかしこのままでは先行生計をたてるのすら危ういのではという読みが強まっている。そこで何とか切り替えをはかっている。

 

(農業について)

 海岸線は山に面しており、平野部が少なく、生きていくための米を収穫するためには斜面を切り拓いて棚田を作り米を作った。水さえあれば棚田をうまく利用することができた。棚田は山の裾の部分に作っていたため畑は山の中腹、頂上附近に集中した。大根やイモなどの栽培をして、収穫時は山の登り降りが大変だったという。

 現在の平地(今住宅が密集するところ)は以前は海、つまり埋立地であり、棚田の利用は免れなかったらしい。最近、さらに埋め立てが進んでいる。というのもこれ以上世帯数が増えるわけでもなく水田を作ったところで水利は悪く、県の土地であるために購入費による出費がより多くかかるらしい。しかも海の循環も悪くなるのでこの先が心配である。

 

○水の利用

大浜浦には利用可能な2つの溜池があった。松本だめと新ためである。この2つの溜池から水を引き三がん井手といって3つの取り入れ口から水を田へと流し込んだ。終戦ころまではこの3つの井手口以外からは水を取り入れることはできず、もし約束を守らなければ村を追い出されることすらあったらしい。

 そもそもこのあたりの山からでる湧水は山の中腹から湧き出るらしく(つまり大浦あたりに)大浦浜ではなかなか水を入手するのが困難であったらしい。

中浦には赤坂から掘られた地下水路によってひかれた有名な水路があったが大浦浜にはそれらしきものはなかったらしい。

 時代が進むにつれ、ポンプなどで自由な水の利用が許されるようになり、現在、飲料水は松浦川から大浦浜一帯の水を引いている。

 

○流通・収入

 漁による収穫が多いため、山間部や平野部の村と、魚対麦・米・豆で物物交換をしていた。これはともにお金のない西村が利益を得ることができた。

 船大工が3人ほどいて現金収入を得ていた。

 農業・漁業による収入では厳しいので日雇いの労働や出稼ぎ労働もしていた。

 ツジダは塩田であり塩の生産をしていた。

 



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