佐賀県東松浦郡鎮西町鬼木

 

1LA97063 大橋強

1LA97109 小宮通充

 

話者:笹田泰司さん(昭和15年生まれ)

 

私たちが調査しに行った鎮西町鬼木はバスか降りたところからかなり距離があった。しかも、大きな道路沿いになく、小さな道を行かなければならなかった。そのせいでかなり道に迷ってしまい、結局鬼木に着いたのは昼過ぎだった。その時点でかなりへとへとになっていたのだが、まあどうせお昼ご飯時だということで少し休憩してから話を聞く相手である笹田さんを訪問した。

 まず、鬼木という小字について。鬼木の歴史は浅い。戦後、中国からの帰還兵から成る「名護屋開拓団」がこの地域にやってきたのが始まりだそうだ。もともと、この地域は山林で、野元の地主が所有していた土地を県が買い上げて開拓させたらしい。県が配分した1軒あたりの山林は1町ずつくらいで、その境界は医師を埋め込んで目印をつけたらしい。開拓の形態は主に焼畑である。しかし、キイノとは呼ばなかったそうだ。また、水田は、イシワリダ(石割田)と呼ばれていた。水路などは用いず、山肌から水が湧き出てくるところに水田を作ったそうだ。機械が入れないから、石を積み上げて、棚田のようなものをつくったようだ。次に、草切り場というものはなくて、家畜のエサとなる草は、水田の中の雑草や、道端にある草を個別に与えられた山林の中から取っていた。結局、その時に割り当てられた土地はそのまま、現在、各個人の家が建っているところであるということだった。山や谷、岩や大きな木などの目印になるものに付けられた名前などもなかったが、学校道として、野元へと通じる道のことは聞き出すことは出来た。「イチドウ」(一堂)と呼ばれていたらしい。

 また、50年前の現金収入は、焼畑によるさつまいも、麦、菜種などの他に、ブタ、牛、羊、ウサギがあった。ウサギと羊からは毛を取り、牛と羊からは乳をとっていたそうだ。

 最後に、私たちが調査しにいったところは、前にも述べた通り、歴史の浅い地域であり、戦後の食糧難の時代にできたむらなので、山や谷や目印の岩、木などの名前などを付ける余裕などなかったのではないかと思った。そのため、しこ名の数がほとんどなかった。

 とにかく、今回の調査でわかったことを書くと、名護屋と打上が合併したのが鎮西町となり、鬼木はその中の小字である。鬼木は戦後にできた集落であり、水田をイシワリダと呼んでいた。また、まだ打上小石室分校が出来る前は野元の学校まで行くため、イチドウと呼ばれる道を通っていた。昔の現金収入はさつまいも、麦、菜種、牛、羊、ウサギ、豚などで現在はみかんの栽培をしている農家が多かった。

 

水田・・・イシワリダ(石割田)

用水・・・山からの出水

目印となる岩、木など・・・なし

草切り場、キイノ・・・なし

昔の道・・・イチドウ(一堂)

入り会い山・・・なし

昔の現金収入・・・さつまいも、麦、菜種、牛、羊、ウサギ、豚

焼き畑の移動・・・なし



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