鎮西町中平・潟
1LT97142 前田剛
1LT97138 堀篤史
小字 中平、木ノ元、田頭、神ノ上近辺
11時ころ、現地に到着し、中平へと向かった。中平に着いて歩き回っていると、ようやく一人の中年の女性に会うことができ、坂口さん宅のおばあさんを紹介してもらった。そこでその坂口さん宅を訪れて、そのお宅の女の子におばあさんに取り次いでもらうように頼んだが、40歳前後のご主人があらわれて、都合が悪いので田頭のほうにいうようにと言われた。仕方なく木ノ元、田頭、神ノ上と歩き回ったが、誰もいないので、神ノ上の民家を訪ねてみると、12時30分ごろにおじいさんが山から帰ってくるのでまた来なさいと言われ、そうすることにした。よく考えれば日曜日だからといって農家は休みではないのである。そそのあいだに、この一帯で一番物知りであるらしい、別の坂口さんを訪ねてみた。しかし、このお宅も肝心のおじいさんが不在で、何も聞くことができなかった。結局、かなりの間その一帯を歩き回ったが、午前中はなにも聞き出せなかった。
12時30分になり、再び神ノ上のお宅を訪ねると、おじいさんは外で待っていてくれていた。以下、おじいさん(65歳くらい)の話を要約する。
しこ名については何も知らないという。マニュアルにあるとおり、神ノ上や木ノ元といった小字名より小さな、畑や田の名前はないのですかと尋ねたが、やはり知らないという。同じような内容の質問をニュアンスをかえてしてみたが、どうやら本当にこんな名前は知らないようだ。田畑に限らず、川や道といったものにも同様の名前はないものか、尋ねてみたが、これも答えがなかった。そこで他のことを質問することにした。まず、小字神ノ上、ハゲノ坂、笹ノ田といった辺りは昔は山の斜面で何もなかったらしい。このお宅の畑を含めて、農地ができたのは大きな開拓のあった30〜50年ほど前からで、古くは、お宮(熊野皇神社)に関係する土地で、工作ができなかったようだ。むろん、焼き畑などはなかったが、牛の飼料を刈る草切り場のようなものは個人的に持っていたそうだ。稲作・畑作の他には竹を切り出して売っていたという。その名残か、辺りには確かに竹やぶがよくみられた。竹の他には養蚕もあったそうだ。水の利用については、昔は溜池の水を利用していたそうだ。確かにこの辺りは田んぼよりもむしろ、畑が多い。木ノ元の谷間の沢のまわりにあった棚田以外の田は広くできており、比較的近い時代に整備されたのではないかという印象を受けた。現在はダムから水を引き、先の旱魃の際も、いま力を入れているみかん、煙草といった作物に被害らしい被害はなかったそうだ。
以上が中平での調査のけっかであるが、思ったよりもお年寄りが元気で、山に行っていたりして会えなかった(特に男性)上に、時間の都合からここだけにこだわることもできず、成果を収めることができなかった。
小字潟・早田
午後1時に中平を発ち、潟へと向かった。潟へは一度谷を下り、潟川をわたって100m程登るという険しい道程で、潟のあたりについたのはおよそ2時ころ、バスの時間と帰りの時間を考えると1時間半ほどしか残っていなかったが、できるだけのことをすることにした。運良く、植木の世話をしていた浦丸林さん(70歳くらい)に話を聞くことができた。
浦丸さんもしこ名については何も知らないという。前回同様、マニュアルに忠実に質問をし、どうにかして聞き出せないものか頑張ったが、潟はかなりの山の上で、田も畑も見当たらず、これといって目立つ木や岩といったものもなく、聞きようがなかった。近くの竹林や雑木林などについても聞いてみたが、やはりそんなものはないという。分かったことは、村の入会地がダムのあたりにあったということと、昔は炭焼きが主な産業であったということ、それと、ここも現在は煙草・みかんの栽培が中心であるということだった。
浦丸さん宅の前の道を進むうちに、小屋で作業をしていた松本富士男さん(64歳)に話を聞くことができた。やはり山(台地)の上の、稲作のできない場所である。
松本さんもまた、しこ名については明確な返事はなかった。そこ(目の前)にある畑を呼ぶようなときには何と言っているか聞いてみたが、そこの畑はそこの畑としかいいようがないからね、ということだった。しかし松本さんにはあたりの山の名前を教えてもらった。潟川の向こうに見えるのがオンナ山(女山)、すぐ右手に見えるのがキョウノ山だという。松本さんの話によると、昔はやはり炭、竹などを中心に、畑で各種の麦、大豆、甘藷、馬鈴薯、キャベツ、白菜、大根などを栽培し、売りに行っていたという。現在と違いが、道が細く、馬車や荷車も通れないようなものであったため、この急な坂道を天秤棒に荷物を積んで行き来したそうだ。あと、養蚕もあったらしいが、松本さんの72歳になる家族の女性によると、彼女が尋常小学校3〜4年のころにほとんどの農家がやめてしまったという。現在はやはりミカン・煙草のほかに、ハウス栽培のイチゴなどが中心だという。松本さんにはダムに関する話も聞かせてもらった。このダムは90〜100歳になるような松本さんの親の世代が政府に申請し、最近になって完成した。しかし、ダムはできたものの、はたからみる以上に、ダムに関する農家の負担が大きいという。ダムの維持・管理費をはじめ、ポンプ設備の設置費などもかさみ、さらに痛いのは近年の様々な自由化により作物が値をくずし、収入が上がらないという。農家をやめようと思えばやめられるが、近所で集まってダム事業に関わった以上、一軒だけで抜けるわけにもいかず、苦しいながらも続けるしかなく、いずれは倒産する農家も出るだろうという。倒産するようなことになると子や孫の代まで迷惑をかけてしまうといっていたが、後継者不足の問題も深刻なようだ。潟のほうは中平などと比べても若い人の姿が極端に少ない。というより、若い人の姿は全く見ることができなかった。水争いについては、昔はやはり、上流の人の中に川をせきとめて我田引水のようなことをする人がたまにはいたそうだが、争いにはまでは発展しなかったそうだ。どこの社会にもこんな人はいるものだが、ここは平和だったようだ。最後にもう一度しこ名について聞いてみたがやはり答えがない。しかたなくあきらめて、紹介してもらった日高さんのお宅へとむかった。一度山を下り、川沿いの農家のおばあさんに話を聞こうと思ったが、ここでは迷惑だと思ったため、諦めて再び山へと向かった。
日高さんのお宅では、おじいさんが不在で、おばあさん(84歳)に話を聞いた。日高さん宅の目の前には古くからありそうな棚田があり、期待がもてたが、残念ながら、おばあさんはしこ名に当たるような名前は知らないという。ここでも我々はかなり質問に工夫をして、なんとか聞き出そうと頑張ったが、やはりだめだった。ただし、どの田んぼかを特定するような場合、“何段目”といった具合に呼んでいたそうだ。おばあさんにもいろいろと話を聞きたかったが、おばあさんがきつそうだったので、これ以上質問することはやめにして、戻ることにした。帰る途中でも加久保の辺りでおばあさんに会い、話を聞いたが、“加久保田”という名前の他に思い当たるものはないそうで、ここでも得るものはなかった。
以上が潟での調査の結果であるが、やはりしこ名にあたるような名前を得ることはできなかった。我々の質問が悪かったとは思わないし、頑張ってなかったわけでもないけれど、結局は力不足としかいいようがない。全体的に今回の調査を振り返って感じたことは、この近辺は川沿い、台地の上、その中間といったところに集落があり、台地の上で暮らす人々が一番苦労をしているように見受けられた。そして、減反、自由化などの政策が確実にこのような人たちに影響を及ぼし、変化を強要しているようであった。我々はいずれこの変化について真剣に議論しなければならなくなるだろうが、そのようなとき、今回訪れた人達の話を聞くことが最も重要なことになるだろう。