佐賀県東松浦郡鎮西町中野

 

1LT97162 山内美希

1LT97094 津溜香織

 

話者:

濱中粂志さん(昭和11年生まれ)

山下渉さん(大正2年生まれ)

 

 

小字

しこ名

 

 

アゼダ(畦田)、シモ()、ツボンダ、コウラ

村前

ムラマエ(村前)

上松

オコンゴ、イザンモト

野中

ハルグチ(原口)

山道

ロクザカ(労苦坂)

 

小路の名前

サコ(沙子)、ウエマツ(上松)、ヤシキダニ(屋敷谷)、チャエンダニ(茶園谷)

ムカエ(迎エ)、ダンチ(団地)

 

・ほり、井樋はもともと無い。

・水路は江頭川を利用。

・堤防は江頭川周辺だけ。

・橋は昔から中野橋と呼ばれていたものが1つと名前の無い新しくできた橋の2つだけ。

・団地が新しくできて、15世帯が住んでいる。

 

 今回私たちは「農村・山村を歩いて考える」の授業で佐賀県東松浦郡鎮西町の中野という集落を調査することになった。事前に中野の区長さんに連絡を取り、幸いにも区長さんが快く引き受けてくださったので、到着したら区長さん宅を訪問することにした。

 区長さんのお名前は、濱中粂志さんで昭和11年生まれの62歳である。長年、町役場で働いておられ、定年退職後に区長さんとなられたそうである。濱中さんの御宅は、農家ではなかったので、田のしこ名などについては詳しいことがわからないということであった。そのため、近所のお年寄りを紹介してもらうことになった。紹介していただいたお年寄りのお名前は、山下渉さんで、大正2年生まれの85歳、昔から農業を生業とされている方であった。私たち2人は、区長さんと山下さんのお二人からお話を伺うことになった。

 まず、今回の調査で第一の目的とされる田んぼのしこ名についてであるが、前回(前期のコアの授業)よりも数多くのしこ名を集めることができた。中野の場合、水田となっているのは、江頭川周辺がほとんどで、残りは12つ点在しているといった感じである。話によると、昔は現在よりも、もう少し田の数は多かったそうであるが、農地整備で田んぼから畑へと切り替えられたようである。調査で判明したしこ名は、まず小字の辻にアゼダ(畔田)・シモ()・ツボンダ・コウラ(漢字がわからない)であり、小字村前にはムラマエ(村前)というしこ名があった。小字村前は、しこ名がそのまま小字になったようである。また、小字上松には、オコンゴ・イザンモトが、そして小字野中にはハルグチ(原口)というしこ名が存在した。田によって昔米がよくとれるところと、とれないところの差があったかということについては、水が(川の)あれば、問題はなかったということだった。また、化学肥料が入る前は、反当約五俵米がとれたが、化学肥料が入った後、反当約八俵に増加したということである。戦前は、牛や馬の糞にワラを混ぜたもの(マヤンコエ)を使用していたということである。米の種類としては、昔はアサヒ・アイトク・日本晴・もち米などを作っていたが、現在ではコシヒカリしか作っていない。

 次に、水利についてであるが、水田の水は専ら付近の江頭川の水を利用している。これは、今も昔も変わらない。特別な水路やほり、そして井樋、水利組合はなく、各家で管理している。昔、江頭川を共有していた、隣村の赤木と少し水をめぐる争いがあったようである。三年前の大旱魃の時は、打上にあるダムからの水があったので特に困らなかったが、もしそれが四十年前のできごとであったならば、ひどい干ばつになったであろうとおっしゃっていた。中野には、江頭川に中野橋という橋がかかっていたが、それ以外の名前はなかったようである。

 田んぼ以外にしこ名がついていたものとして山道があった。地図に図示している山道であるが、口ヶ坂(労苦坂)と呼ばれていた。この坂の名前の由来は、読んで字のごとく「登るのが大変だから」ということであった。

 牛や馬を農家が飼っていた頃は、草切り場があったが、現在はないということである。中野では、キイノ(焼き畑)は行われていないということであった。また、屋号は特に使われていないようであった。

 村の共有の山林は無く、ガスが普及する前の燃料は個々人の山林からとっていたということである。まきの材料としては、マテ・イノキなどである。山を持っていなかった人たちは残りを適当に拾っていたということである。

 昔、村では副業として3分の1くらいの家で解雇を飼育したということである。また、農業ができない冬の寒い時期は、いわゆる出稼ぎのようなことも行われていたようである。

 村の祭や神社などについては、近くの山王神社で春と秋の2回祭りが行われている。また、農家だけでは田植えの終わった後に豊作を祈る「さなぶり」という祭りが行われている。元旦には、元旦祭が有り、1月の13日には「的射りご」といって、うさぎの害を防ぐための儀式もやっているということである。

 最後に村のこれからについて尋ねてみたところ、中野は子供が少なく、独身男性が多いためこれから寂しくなっていくだろうということだった。また、山下さんにこれからの農業についてどう思うか聞いてみたところ、明るい望みはないけれど、今現在中野ではいちごを作る家が3軒、タバコを作る家が3軒、黒牛を飼育している家が1軒あり、それになんとか望みを繋ぎたいとおっしゃった。そして、昔から村で行われていた田の神様のお祭りなどが少しずつ消えていってしまうことが悲しいということであった。

 一日私たちは、中野を歩いてそして調査してみて、昔から使われているしこ名が消えてしまうのも時間の問題であるということを感じた。私たちが調べたことは、これから大切に保管することが必要であるとも思った。真冬のとても寒い日であったが、とても貴重な体験をすることができた。最後に、親切に私たちに話をしたくださった区長さんの濱中さんと山下さんに心から感謝したいと思う。



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