佐賀県東松浦郡鎮西町名護屋

 

1LA97107 小林顯太郎

1LA97067 小倉愛子

 

小字

 

マエダ

ナカノ

ムラグチ

カンノキ

セト

オオサカ

 

〈屋号について〉

屋号は2軒しかないということだった。

カンノキは「かみのき」というのがなまった名前で、昔からカンノキと呼ばれていた。

ジイコウは「ずいこう」というのがなまった名前であり、昔、野元にあった「ずいこう寺」という寺の名前からつけられたものである。この「ずいこう寺」は後に名護屋の観音寺という寺に合併されたため、現在はもうない。

 

〈古道などについて〉

「太后(正しくは太閤)の道」は豊臣秀吉の時代からあった道で、名護屋城の城壁の岩や、かわらを運ぶときに、「てんぐ道」と呼ばれるバケツリレーと同じような方法が行われるために整備された。昔はこの道がずっと続いていた。

「マツノモト」は戦後に整備された。終戦直後は米、麦、イモが主な作物だったので、それらを赤松へ出荷するためのリヤカーなどが通れるように道幅を広くするなどの整備が行われた。

県道は戦後2回作り直された。一度目の整備では道幅が狭すぎた。車など交通手段が変化してきたために明治時代に二度目の整備が行われた。道幅が変わったりはしたが、道のある場所は昔から変わっていない。

「シミズミチ」はしみず山から続いている道で、「マエダミチ」はまえだから続いている。しみず山からの湧水は昔から生活用水として利用されていて、その水を汲みに行くときに主に利用していたようである。

「ムラグチ」は昔、山だったが、増本建設が山を切り崩した時に作られた集落である。

「ジネンセキ」「ゴリンドウサン」は、お墓の名前で、近くにある建物の中に仏像を集めて、野元の人々が参拝していた。

「キシダケクズレ」豊臣秀吉がこのあたりの城を攻めて来たとき、この道を通って侍が逃げてきた。

 

〈水利について〉

以前は「太閤さんの道」を境に、ムラグチ側とカンノキ側に分かれていた。カンノキ側では、地下水や川からの水を利用していて川の水を利用するために4mくらいの石を積んだ壁を整備していた。風呂水や料理用の水など生活用水として使われていた。昔、この集落では共同の風呂があり、タンクで運んできていた。

 堤の原溜あたりを境にナゴヤ側とウチアゲ側に分かれていた。17年くらい前にウチアゲ側にダムを作ることになり、野元からも1軒から10日くらいずつで働きに出かけた。ナゴヤ側にもダム用の土地を買いかけていたが、何トンもの水を岩盤で止めるのは無理で、堤防を作っても無駄ということでダム作りは中止された。その後水道整備が始まった(昭和60年代終わりころ)

 堤の原溜のあたりに石田三成の城跡のお堀であった用水池があり、その用水池も利用されている。

 水の利用の取り決めについて特になく、野元は谷間にある集落のため、水をめぐっての争いなどもなかった。1994年の水不足の時も、水道整備がきちんとされているので困ることはなかったし、それ以前の水不足も、各戸に井戸があったので困らなかった。

 

〈その他〉

 終戦直後は、イモ、小麦、米を作ることで収入を得ていたが、米で得られる収入は少なく、しばらくすると、大豆や菜種が作られるようになり、楮という紙の原料も作られるようになった。楮は荒地でも成育するため、田の隅や道の隅などに植えられた。玄海町の方には紙漉き職人が多くいたため、道の整備が進んでからは、野元で収穫された楮を、農協がまとめて玄海町まで運んでいた。菜種は小麦の裏策として作られていた。

 現在では、最大の収入源はタバコであり、タバコだけを専門に作っている農家もある。次はみかんである。野元の人たちは、以前ほとんどが専業農家であった。農家の人は毎日働いていて、それでは働き過ぎになり、体にも悪いということで、毎月第一日曜日は農休日と決め、休まないときは女性300円、男性400円寄付という形で区費を払うということにしている。

 

〈村のこれから〉

 野元の家の軒数は、1213軒→1617(終戦)27軒→(現在)17軒と変化してきている。戦後、村おこしのために27軒と増えたが、若者が出て行ったため、現在では再び減少傾向にある。以前はほとんどが専業農家だったが、現在専業農家は17軒中3軒だけで、福岡まで現場監督などの仕事などについて出稼ぎをしにくる人もいる。タバコ農業はきつくて、機械を使用できない作業も多いし、農業だと休日も少ないということで、跡を継ごうという若者はほとんどいないらしく、お話を聞かせてくれたおじいさんの家も困っているようだった。



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