佐賀県松浦郡鎮西町丸田
1LT97070 須尭悦子 1LT97077 竹岡芳
○行動記録 10:30頃 現地到着 民家を訪ねる。よく分からないので区長さんに尋ねるようにとおっしゃった。 区長さん宅に電話 区長さんは丸田公民館にいらっしゃることがわかった。 11:30頃 昼食 13:00 公民館へ 区長さんと、公民館にいらっしゃった老人会会長さんに話していただく 16:00 バスに乗る。
○丸田は4つの地区に分かれていた!? 丸田には昔から2つの氏神がある。 ・八幡宮 ・山神宮 氏神を祭ってよく行事が行われていた。小峰さんの話によると、昔はその氏神によって村が二分し、争ったこともあったらしい。 また、地区は下の4つにわかれた。 ・三反田(さんだだ) 八幡宮 ・副(そえ) ・丸田 → 村の人々は丸田谷(まるただに)と呼ぶ。 山神宮 ・大神 → 村の人々は琵琶首(びわんくび)と呼ぶ。
○村の水利 ・昔(50年ほど前) 水源が天水と地下水のみだったため、台風常習地帯である丸太は旱魃の被害が大きかった。→1反辺り1俵もとれない年もあった。 ・今 水源は松浦川の水である。松浦川から水を引き、後河内ダムにためる。後河内ダムには3750,000tの水が入る。 ただし、松浦川から水を引く際、いつも水をあげてよいというわけではない。漁業の水利権により、大雨が降った時だけしか水を上げてはいけないらしい。 又、後河内ダムは多目的ダムであり農業用ではない。後河内ダムからは各地区のファームポンド(30箇所)に水を流し、コックをひねったら出てくる仕組みになっている。(赤坂ダムが建設を予定されていたが、工事は中止された。) この仕組みは、国・県営相開発事業のひとつであり、水利用組合が運営している。松浦川の水は、唐津・肥前・玄海・鎮西・呼子・北畑村が利用している。(一部を除く。) 昔は、ファームポンドからの水を使う人だけがお金を払っていたが、今は、田畑を所有している人はみんな払うようになっている。 金額は、田・畑・特殊園芸(1番高い)の3つそれぞれによって異なる。
このような開発によって、1994年の大干ばつでは全く被害を受けなかった。 しかし、これが30年前だったら、ほとんど収穫は得られなかっただろうと元区長さんは言う。(→天水・地下水のみ利用していたため)
昔、川から水を引くことはなく、天水・地下水のみによっていた。
○土地 ・丸田には、海に面している地域が約150mある。うになどがとれるらしい。 しかし、丸田には漁業者がいないため、その漁業権をほかの村に分けたので、現在丸田には漁業権はない。 ・小友は丸田に含まれていたが、切り離れて呼子町になった。 大友も昔から呼子町である。 小友・大友は一的には鎮西町であるが、呼子町に含まれる。(飛地)
○村の境界 村は革で分かれていた。(川境)
○村の耕地 ・現在は土地による差はほとんどない。(後河内ダム、ファームポンドなどになる) ・開発前は土地による差はあった。→8階級ほど。各階級によってかかる税が違っていた。
田畑に通じる道路の状況、土地の肥沃程度などあらゆる面で検討して区割りがなされていた。
・戦前は7〜8俵 収穫があった。 開発前は6俵程度 しかし、干ばつや台風によって1俵もとれないときもあった。
・現在は田の条件は良くなっている。→後河内ダム、ファームポンド しかし、田は小さく、そこで使う機械は高いので採算がとれなくなっている。
・土地はすべて個人名義のものとなっている。(マッカーサーの指令により村での所有は認められなかった)
○農業の現状 ・農業戸数の変化:80戸→33戸→60戸 現在では専業農家はいない。兼業農家主体となっている。(農地が10町以上でないと生活はやっていけない。)
・前述のように丸田の田は小さく、専業農家ではやっていくことはできなくなっている。 昭和40〜55年の時期は米もとれ、みかんも生産していた。その後、みかんは過剰生産に なり国から生産規制をうけるようになった。 昔はみかんづくりで生活していけた。今は全くだめ。 みかんづくりで生活していける家。40軒→3,4軒
○村の過去(50年前) 米以外の現金収入は・・・ ・畑 → さつまいも、麦、馬鈴薯、なたね、小麦、あわ ・呼子から魚と鯨が安く入ってきていた。(松浦漬け・・・くじらの軟骨を酒粕につけたもの)
○日本農業への展望 ・個人で昔のようにやっていくことはできない。 ↓ 組織化、法人化が必要 |