1LA97085 川津知子 1LA97100 高良聡美
話者:赤木重男(明治42年組まれ) 佐々木恒民(昭和9年生まれ)
屋号 宮崎実さん宅 リョウセン 大石照雄さん宅 カミマツ(上松) 佐々木篤さん宅 ヨコミチ(横道)・・・道の横にあるから 佐々木泰之さん宅 トオミヤマもしくはトンボヤマ・・・家から名護屋城が見渡せるくらい遠くが見えるから 佐々木一さん宅 コウジヤ 田原ユキさん宅 ヤクバ 大石三夫さん宅 タオ 赤木トシ子さん宅 ミカンヤマ 佐々木商店 ヨツカド(四ツ角)・・・四つ角にあるから。 柴田敏行さん宅 シバショ
・太閤道について 加倉には豊臣秀吉が通ったと言われている「太閤道」があった。今では、部分的にしか残っていないが、その道は地元の人に今でも利用されている。この太閤道は枝去木へと続く。
○水の利用について ・竹後溜 二地域(柳田、石割山方面)に途中から分かれて利用されている。 ・中川原溜 下が石のため、水がうまく溜まらず過去4回程修理を行ったが、現在も下の地面がむき出しになっている状態である。そのためあまり溜池としての役割を果たしていない。中川原や前田は、中河原のさらに西の谷から水を引いている。 ・ニタガソウラ、タムカエ地域は谷から水を引いている。
加倉は、水が豊かであるとは言えないけれど、山があるため、山の保水力によって、田畑 は支えられている。そのため少ない水でも、作物を実らせることができる。また、ビニー ルを活用して、水のムダ使いをなくしている。しかし、養鶏場ができたことにより、山が 切られ、開発されたため、山の保水力が低下し、水不足が起こりやすくなっている。
1994年の干ばつについて 中川原、タムカエの一部が田んぼを作ることができなくなった。その他の地域では、もともと少ない水の利用をしていたため、あまり影響はでなかった。
村の境界について 山の峰や尾根によって村(地域)の境界は定められている。
今回の現地調査では、加倉一の生き字引である赤木重男さんに話を伺うことができた。 加倉では、同じ苗字の人が多いため、今でもお互いのことを屋号で呼び合う習慣が残っており、田んぼのこともやはり田ん中という人が多い。 加倉には、これといって大きな川がないため、溜池を利用しているが、中川原溜は役に立たないため、赤木さんは四度の修理のうちの二度も修理にかり出されたそうである。 また、竹後溜からのびている水路は、60年ほど前は、さらに先にトンネルを掘って神田地域まで続いていたらしい。 赤木さんは、この工事にも携わってトンネルを堀ったそうである。 現役の百姓として今もお元気なこの古老は、戦時中、鹿児島県小川島で長崎に落とされた原爆のきのこ雲を目撃したという経験をお持ちである。また、博多空襲も目撃されたそうである。 現在はほうきを作って地元の小学校に寄付したりされている。 地域に少しでも奉仕できれば、と語られていたのが印象的であった。 また、佐々木さんご夫妻は私たちをとても温かく迎え入れてくれて、本当に感謝の気持ちでいっぱいである。 |