佐賀県東松浦郡早田

 

1EC97165 松原みか

1EC97168 的野麻耶

 

話者:宮崎ツヤ子さん(昭和5年生まれ)

   宮崎菊治さん(昭和18年生まれ)

   吉田豊誠さん(昭和20年生まれ)

   宮崎明善さん(昭和26年生まれ)

 

大字早田で小字には分かれていない。昔は大字菖蒲小字早田だったが、30年くらい前に分かれて大字早田になった。

 

田畑・・・フチヤマ、フチガシラ、タニガシラ、フジワラ、オバコ(尾箱)、ニシカワ、タコラ、タオ、イッサコ、シシクラ、ヤナギダ(柳田)、ツツミ、ゴアンボ、ハヤタニマエダ、ウシロ

みかん畑・・・スゲモト

建物の呼び名など・・・ツジ、シク、トウノキ(唐辻)、ナカドウリ、ウシロ、シモグチ

道・・・ニシカワセン、ヤナギダセン

池・・・トオノキガワ

川・・・ニシゴの川

 

〈教えてもらったこと〉

・田んぼが整備される前はよく米がとれる田、とれない田はありましたか?

 普通は田んぼによってそんなに差はなかった。ただ、水不足の時はヤナギダ(柳田)やマエダの田んぼは有利だったが、オバコ(尾箱)は不利だった。オバコのような乾いた田では麦を作っていたが、田が湿っていて麦ができない家は畑で麦を作っていた。

 戦前(化学肥料が入る前)は米は1反あたり45俵位とれていた。化学肥料が入り、米作りに全力を注いでいた頃、つまり今から2030年前は1反あたり910俵くらいコメを作っていた。今では1反あたり89俵くらいである。

 戦前は自分の家で飼っている牛、人の糞などを肥料にしていた。化学肥料が入ってくるとずいぶん楽になった。そして化学肥料と堆肥の両方を合わせて使っていた。しかし、耕運機がでまわり、牛を家で飼わなくなったころ、化学肥料だけを使っていた時期があったが、それではこめのできぐあいが悪かった(やはり堆肥が必要だった)。今では農家が何軒も協力し、共同で堆肥を作る。昔のように化学肥料と堆肥を使って肥料を作り、みんなの田にまいている。最近は化学肥料はあまりよくない、ということで有機入り化学肥料を使っている。ちなみにこの村では共同で機械を買い、みんなで使っている。

 

・風呂をたく燃料はどこからとってきていましたか?

 今みかん畑になっている山は、昔は何もしていなくて、ただ普通の山だった。そこで冬のうちに椎の木、マテの木などを倒して、短く切って、薪を作っていた。

 

・村の道は昔と変化がありますか?となり村との交流や物の行き来はどうでしたか?

 冬はほとんどの(乾燥する)田、畑で麦を作っていた(戦後しばらくまで)。まほらんという葉から繊維をとっていた家もあったがこれは1軒だけだった。蚕を飼っている家もあったが早田では少なかった。個人的に炭焼きをしている家もあったが、これも早田では一般的ではなかった。たばこは多くの畑で作っていた(ある家では30アールくらいの畑で)。酪農も行われていた。田や畑を耕すために牛馬をどこの家でも飼っていた。

 

・今から3年前(1994)に大干ばつがありましたが、その時はどのように水をまかないましたか?

 開発の水があったので3年前は大丈夫だった。ちなみにダムは1520年前にできた。

 

・もしダムがない昔だったらどうなっていたと思いますか?

 山に近い高いところにある田が先に水をせきとめてとって、下の田には水が回らなかっただろう。せきとめられた水を夜のうちに流れるようにしておく、というような小さな争いは以前あったが、村どうしというほどの大きな争いは特になかった。田にほとんど水が来なかったところは田に穴をほってそこにできるだけ水を貯めていた。

 

・水はどこから手に入れていたのですか?

 田んぼの水は上()から自然に流れてくる水を使っていた。水が不足すれば上の田から必要な分だけ水をせき止めて使ったので、下の田の人は水が足りないこともあった。生活の水は井戸の水を使っていた。昔使っていた井戸が今でもあるが、今は井戸の水は使っていない。トオノキガワという池があって、その池はいつも水が豊富だった。井戸水の足りない時や旱魃の時にはバケツをもってトオノキガワに水を汲みに行っていた。今は選択や風呂の水は唐津の後川内ダムからとっている。しかし飲み水はトオノキガワの水がおいしいので、今でもそれを使っている。

 

〈村のこれから〉

村の姿・・・田んぼや道が整備された。道は広く、便利になった。

・村はどうなったのか?

戦後、米作りに全力をそそいでいた。しかし、米だけでは食べていけないので、昭和40年ごろからみかん作りを始めた。今は水田には全力を注ぐのではなく、できる分だけをやって、ほかのものを作っている。ろじみかんはだんだん減ってきている。ハウスは増えてきていて、ハウスみかん、ハウスいちごなどを作っている。

 

・村はこれからどうなるのか?

 早田は部落全体が仲がよく、米作りは共同でやっているので手がかからない。15軒くらい農家がある中の10軒で機械を買い、肥料、なわしろ、ほとんどが共同作業である。そのため、手がかからない米作りは今までどおり(1反当たり78俵くらいで)やっていくだろう。でも米作りだけでは不十分なのでハウスで売上を伸ばしたい。ろじのみかんはますます減っていくだろう。農業をする人の数は減っていくのは間違いない。

 

〈一日の行動記録と現地調査の感想〉

午前中にバスから降ろされて、早田の家を訪ねてみるが、どの農家も仕事中で、昼までは帰ってこないそうだ。家にいた人にお話を聞こうと思ったが、女の人はよその土地からとついできたので、早田にはあまり詳しくないようす。だが、お昼までは暇なので、宮崎ツヤ子さんというひとり暮らしのおばあさんの家におじゃまして、しばらく昔のお話を聞いた。彼女は地図がわからないのでしこ名はあまり聞き出せなかったが、昔のこと、水のことなどについてはたくさん教えてくれた。お昼に農家を数軒訪ねて回って多くの事を聞き出せた。地図会社の者と見間違われたりもした。しかしお年寄りの話をあまり聞けなかったのが残念だった。



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