【東松浦郡相知町湯屋】

 

歴史と異文化理解A

1LA97264守 紘子、1LA97278山田桜子

 

.しこ名 〜 一覧

 

地区の名 湯屋

・ナカハラ(中原)     ・ショウヤヤマ(庄屋山)

・ヨシノセ         ・ユノガシラ(湯頭)

・カシガワ(加志川)    ・シンデン(新田)

・ホバサコダニ       ・カンノセ

・ホンダニ(本谷)     ・カシゴ

  ニシンタニ(西谷)   ・ユノカミテンマングウ(湯上天満宮)

  ナカンタニ(中谷)   ・ユノシモテンマングウ(湯下天満宮)

  ヒガシンタニ(東谷)  ・ドウノマエ

  アツマンタニ(集谷)  ・ウッポガシ

・ユヤンダニ(湯屋谷)   ・ゲンゾウコバ

・オヤステコステ

 

屋号

・ヤクテン(薬店):昔、薬屋をしていたから。今は普通の家。

・テランモト(寺元):お寺の近くだから。

・デミセ(出店):店を出していたからと、関(イデ)のそばだからと、2つの説がある。

 

焼き畑、キイノ

・やっていなかった

 

小路

・ない。小さな地区だから。

 

 

1´.しこ名 〜 小字別

(1)田畑   小字中原の中に   ナカバル(中原)

(2)川    小字中原の中に   ヨシノセ

小字加志川の中に  カシガワ(加志川)

(3)谷    小字木谷の中に   ホバサコダニ

                  ホンダニ(本谷)

ニシンタニ(西谷) ↓

ナカンタニ(中谷) ↓

ヒガシンタニ(東谷)↓

アツマンタニ(集谷)← ※集まっているから

        小字湯屋谷の中に  ユヤンダニ(湯屋谷)

        小字加志川の中に  オヤステコステ

(4)山    小字湯屋の中に   ショウヤヤマ(庄屋山)

(5)道    小字中原の中に   シンデン(新田)

                  カンノセ

                  カシゴ

(6)神社   小字加志川の中に  ユノカミテンマングウ(湯上天満宮)

                  ユノシモテンマングウ(湯下天満宮)

(7)その他  小字中原の中に   ドウノマエ

                  ウッポガシ

        小字本谷の中に   ゲンゾウコゲ

 

.村の水について

地区の名前

使用している用水の名前

用水源

共有しているほかの地区

湯屋

イセキ

厳木川

町切、田頭、中山、山崎、久保(5ヵ所)

昔の配水の慣行・約束事

昔の水争いの有無

・全耕地の大きさによって、水路の受け持ち区を決めていく。

・水番(2人)。

・水口に近いところが費用を多く払う。

*湯屋の人々は水利権が弱かったので、町切の人々に水利費を払って、水番を頼んでいた。

・くわと鎌をもって水の管理(漏水を防ぐ)。

・藻を取り除く。

・水争いはあった。

 →対岸同士の村

 

*水利権は町切がもっていた(支流だから)。

 

3年前の大旱魃のとき、どのようして水をまかなったか

湯屋地区は川のそばにありながら、下流に位置するため、水がなかなかまわってこず、昔は水の確保がとても大変だった。S60年頃からモデル事業を始め、国から補助金をもらい、湯屋の人々も費用の6%を負担し、3面コンクリートなどに改善された。様々な事情から、完全に工事が終わっているわけではないのだが、このお陰で3年前は水には困らなかった。もし、旱魃が30年前だったら、大変なことになっていただろう。節水はもちろん、藻上げを他の地区のところまでやることになったと思われる。

 

 

.村の田について

 ・場所による収穫の違いはあまりなかった。

 <戦前、化学肥料が入る前>

 ・米は反当89

 ・良い田と悪い田の差はあまりなし

・肥料は山からとってきた草

  ↓

<戦後>

  あまり変化なし(肥料は化学肥料へ)

 

・入り会い山はなかった(共同で借りたりはしていたが、正式な入り会い山ではなかった)。

 

・「○○ノウテ(縄手)」という道

 →聞いたことがない。いわゆる山道ならある。牛馬で材木を運んでいた。人だけが通れるさらに細い道もある。

 

 

.村の神について

・神社は湯上天満宮と湯下天満宮がある。

・お祭りしている神はウブスナ(土産〔産土ヵ:入力者注〕)の神。

・お祭り

(1)大祭り(12月):新なめ祭のようなもの。収穫した米をすべて同じかまでたく。3組ずつ交代で担当する。

(2)さなぼり:田植えのときに行う。

(3)たきとごもり:豊作を願う。

(4)彼岸ごもり:春・秋の両彼岸に行う。

*(3)(4)は今はない。また、これらの祭りは今年湯上天満宮と湯下天満宮が交互にする。

 

 

.村の姿の変わり方、今後の日本農業の展望など

  湯屋はもともと小さな地区である。そのため、大きな地区に比べると、いつも損をしていた。湯屋の産物といえば、米だけであるが、その農業も年々する者が減り、今では専業農家は1軒、その家も後を継ぐ者がいないそうだ。しかし、湯屋の人々は農業にはこだわらず、子供達には自分に合った将来を見つけてほしいと願っている。また、湯屋の人々は、湯屋にはこれといった特別なものもなく、様々な問題を抱えている所ではあるが、それでも湯屋を愛し、なんとかしてもっと良い所にしようと努力されていた。

 

 

▲お話をしてくださった方々の氏名と生年

 溝上至徳さん  大正15年生(71才)

 溝上鋭輝さん  昭和6年生(66才)

小山幸之助さん 大正8年生(77才)

山内大三郎さん 大正9年生(77才)

 

 

*一日の行動

10:30 湯屋到着

      (昼食)

11:00 山内さん宅に訪問

12:00 田の手入れをしていた男の人に話をうかがう

12:30 小山さん宅に訪問

(溝上至徳さん、鋭輝さんが集まってくださった)

3:30 バスに乗る

 

 

*感想

  湯屋はとても自然がきれいな所でした。目の前に厳木川が流れ、すぐ近くに山が立っていました。初めて湯屋のことを調べたとき、あまりに小さな地区で驚きました。小さな地区だからということで虐げられてきたことも多く、今でも様々な問題を抱えているそうです。しかし、人々は決して湯屋を見捨てることなく、湯屋を愛し、少しでも良い所にしようとがんばっていました。ほんの数時間、話をしただけでしたが、本当にたくさんのことを学ばせてもらいました。貴重な体験をしたと思います。



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