【東松浦郡相知町横枕】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LA97171斗光彩子 1LA97234藤田明子 調査日 6月29日(日) 話者:木下信玄さま:昭和11年生まれ。 その他、明治生まれの方一名。
<しこ名一覧>
・横枕には山道や岩や大きな木など、目印になるものに付けられた名前は特にない。焼き畑というか、野焼きは行われていたが、現在では火事と間違えられることを防ぐため、許可をとってすることになっている。
・屋号について 横枕の有力一族として、世戸氏が挙げられるとのこと。また、藤田姓が多く、藤田○○さんによって様々なことをしていた。以下は皆、藤田姓。 1.甕屋…現在では、藤田勇氏ただ一人が細々と甕作りで生計をたてておられるらしい。横枕では、横枕神社のすぐ近くから、弥生時代後期の壺などが出土しているとのことであるから、太古から窯業はさかんであったようだ。話によると横枕甕は、押川甕の系統を引継いでいるらしい、今では押川のそれは廃減に帰し、横枕甕のみが残っている。 2.魚屋…今はないが、現在の浜白にかつてあった魚市場まで魚を持っていき、生計をたてていたようだ。 3.タバコ屋 4.車屋…車というのは「水車」のことである。車屋は、水車の修繕工事や架け替え工事などをする専門大工のことで、昭和5年に廃業された。横枕には、井堰の下方道路に沿い、溝下に三棟の水車小屋が建てられ、中の車屋を始め、上の車屋、下の車屋と呼ばれていたらしい。水車の起こりは、水利の便を良くするためには水車を設けることが最適だと判断されたためである。その後、精米や小麦の製粉のためにも水車を用いるようになったが、昭和に入り電気化が進んだために、水車は用をなさなくなった。現在は跡がかすかに残るのみ。
・3つの小字の由来について 1.六反田…初めての開墾後、何の支障もなく見事秋実を見ることができた。その墾田の場所は、藤田与四郎氏宅の下方で、その面積が当初六反歩だったので。 2.八反田…「六反田」の成功後、田を拡張していったら、八反歩の田面を更に開墾することができたから。 3.小松…小松の生い茂っていた山を開墾したから。 いずれにせよ、どれもかなりストレートなネーミングではある。
※現在の厳木川は、文化年間(今から170年ほど前)に、数百人の人夫と長い年月を費やし、堀替えられたものであるらしい。170年前当時の厳木川は屈曲が甚だしく、灌水にあたり、何かと不便だったということである。
※地図上の赤い線は罰金ミゾと呼ばれる水路。どうも水利の生命線らしい。(このミゾに悪さをすると、罰金をとられるらしい。だから「罰金ミゾ」)
・村の耕地 地図上の水色のペンで引いた線を境に、山方向に広がる田が悪田、反対側が良田である。悪田と良田の差は水利の良し悪しに関係しているようだ。しかし、出来高などにはあまり差がないようだ。それからどこの田でも作ろうと思えば麦は作れるらしい。しかし、麦を作っている所はない模様。戦前の肥料は草、カヤ、牛馬の堆肥。
・村の生活に必要な土地 横枕村は山に近い村である。やはり入会山を持っていた。(地図上オレンジでぬりつぶした辺り、原本は佐賀県立図書館所蔵)戦前は村内の24人が共有しており、ここから草を取ってきたらしい。そのため、この入会山は草切り場と呼ばれていた。現在では3分の1がまだ共有林であるが、3分の2は共有していた24人で分けたらしい。
・村の道 村の道は昔から使用していたものがそのまんま残っているらしい。特に呼び名もないようだ。つぶれた道もなければ、新しく開いた道もないとのこと。
・祭祀 八大龍王の石祠…厳木川の横枕井堰の傍らに建つ堂祠。水の神である龍神を祀ることで、氾濫防止などを祈念しているらしい。大変な昔から龍王様を祀っていたが、昔の祠は貧相だったので村の面目にかけて、明治に現在も残る割合立派なものに建て替えたとのこと。村での呼び方…龍神さん。 氏神天満宮合祀神…横枕神社である。天満宮の名の通り菅原道真公を祀っている。ここでは熊野大権現(祭神は馬解男命、速玉男命、伊弉冉命)と釜蓋大権現(通称釜ン神)を合祀している。昔は熊野と釜蓋の大権現は別の所にあったらしいが、明治43年3月に神社合祀法により合祀。現在は天満宮本社に向かって左側に神碑があるのみ。氏神様の祭りと呼ばれる祭りあり。また釜ン神は甕屋さんと呼ばれる横枕窯を使っていた人々が祀っていたのではないかと思われる。 浄徳寺…浄土宗功岳山派の寺。年に3回百万遍の法要が行われている。この寺の参道には稲荷大明神が祭祀されている。
・その他 横枕橋が薬神橋と呼ばれていることは前述したが、隣村の千束に薬神の森と呼ばれている所があるらしい。そのことから考えて、薬師如来が祀られている可能性あり。
・村のこれから 昔は洪水が多く大変だったが、井堰が出来た後では洪水にも干ばつにも悩むことなく平和に暮らしてきた様子だった。また小さい村でありながらも歴史は古く、誇りを持って生活している様子が伺えた。おそらくこれからも誇りを持った農家が生活する、のどかで平和な町であり続けるのではないだろうかと思う。
・一日の行動記録 昔、学校の先生をしておられた木下信玄氏のお宅にて話を伺うが、田畑のしこ名は分からず。しかし、木下氏のお話で調査目的のほぼ9割は達成することができた。 親戚に紹介された明治生まれのおじいさんに会うが、誰々さんの家の何番地という言い方しかないと言われる。 親戚に鵜殿の石仏群を見に連れて行ってもらう。 時間切れ。バスで帰る。 |