【東松浦郡相知町山崎】 歴史と異文化理解A 相知町山崎現地調査レポート
1LA97029 稲吉 大輔 1LA97043 上野 勇夫
話者:城 政治さん 木下 正和さん(昭和23年生)
シンデン、ナカシマ、ヤクサマ、タケシタ、タニゴについては、木下正和さん(昭和23年生)から聞きました。 また、調査範囲から逸脱しているものも載せています。
<水利> 山崎は、元々田んぼも広くなく戸数の少ない部落である。それゆえ農家の戸数も元々少なく、水利の面でも不利であり、水利の負担も私たちが訪ねた城政治さんにかなりの負担がかかっていたそうだ。水利慣行はなく、上流の方で水を取った後の残りが来るのを使っていた。だから田植えも自然と上流の方から順番せざるをえなくなっており、横枕の方と田植えが一週間程ずれていたそうだ。 用水の水源としては、山崎より3km上流の厳木川にある横枕井堰からである。この井堰を共有しているのは、右岸では上流から横枕、中山、山崎であり、左岸では梶山、辺保木、相知である。水の消費は左岸の方が多く、農業用水より防火用水や下水を流すのに使っているそうだ。また、横枕井堰が近年ラバーダムに建て直される前には、採噴の工事をして久保にも水を供給していた。建て直す前は100町歩に、建て直した後は60町歩に水を供給している。
<横枕井堰の建て直し> そのころでは、山崎で唯一田んぼを作っていた城政治さんは、この話し合いに参加なさったそうだ。井堰を固定堰とするかラバーダムにするかで揉めた。固定堰は流れを邪魔するので、水害時に被害拡大させるので建設省が反対したが、農林水産省は反対しなかった。しかし、固定堰は維持費がかからないという利点があり、地元ではこちらを希望していた。結局建設省の反対の為、固定堰の建設には2〜3年かかることから、維持費のかかるラバーダムとなった。この維持費は金利の高かった当時の発想で、基金を創ってその利子を充てることになったが、金利の低下や基金の金額の縮小により維持費は地元が負担することとなった。このようにして、水への負担も揚水機で汲み上げるのとコストはほとんど変わらなくなってしまったそうだ。 河川改修や道路の拡張などで田んぼを埋めてしまった山崎も、広域水利組合の方から防火用水や下水を流す為に水を使うという理由で、維持費の負担を迫られている。
<公共事業> このように、国に施設をいろいろ造って貰ってもその維持費が大変だし、机上の論と現実がかけ離れていることもある。
<厳木川> 平成6年の干ばつの際には、天山や作礼山のような高い山から流れている厳木川の水量が多く、困らなかったそうだ。また、犠牲田のなかった。ところが厳木川の水量が多く、ちょうど山崎の所で蛇行しているので、山崎は水害の被害をよく受けたそうだ。城政治さんの経験上最も大きかった昭和23年の水害では、今の山崎橋より厳木川の上流の方にあった橋が流出し、その橋の北側にあった家々も流出した。また、昭和28年にも水害が起こり、水害対策として河川改修が行われて、田んぼも3町3反から2町8反になった。このように、山崎は干ばつの時に水不足に悩まなくていい代わりに、水害の被害を度々受けている。
<山崎の範囲> 江戸時代の頃では厳木川はもっと南に蛇行しており、厳木川を南の境界とする山崎の範囲は南の方に広がっていた。
<これからの水害> 相知町の中心部に近い山崎や隣の中山では、田んぼを埋めて宅地にしたり町の施設の用地にすることになっている。田んぼという遊水池をこのように埋めているので、水害が心配だとおっしゃっていた。
<しこ名など> 我々が調査に行った山崎には、元々農家の戸数も少なく水田を違う呼名を使って呼ぶ事はなかったそうだ。田の番地や誰々の田というだけで通用するそうだ。 水田にはそういう呼名はないとの事であったが、他の部落の人々は山崎の事を“シモウラ(下浦)”と呼んでいたそうだ。 またもう一つ、山崎は周囲の部落から“ムコウノヤマサキ(向山崎)”という通称で呼ばれていたのだそうだ。この呼び名の由来についても城さんはご存知であったので聞いてみると、昔、山崎一帯に向(ムコウ)という一族が住んでいて「向さんの山崎」という意味で向山崎と呼ばれたというのと、もう一つ、厳木川の北岸に山崎があるために向岸の山崎で向山崎というとの事であった。 元々山崎は、現在の地図の山崎よりももっと南の方までの地域を指していたそうだ。そのために同じ山崎でも川の向こうを区別したのではないかという事であった。 この向山崎のように、大字は相知で川端(川のそばであるから)などと地理的なものによって呼び名が付いているようだ。
<屋号> 山崎には前もって住宅地図で調べて分かったことであるが、我々が訪ねた城さんと同じ城という姓を持っている家が半分近くを占めているのである。屋号はないかとお聞きしたところ、屋号と呼べるようなものはなく、ただ本家・分家といった区別しかないとの事であった。また、城という姓は山崎では最も古い姓であるのだそうだ。
<農業> 肥料に関しては、牛にわらを踏ませたものをたい肥とするなど、草のたい肥を以前は使っていたそうだ。 化学肥料は使わなかったのかとお聞きしたところ、BHDをよく使っていてそれが非常によく効いたそうである。が、やはり使っている時は肌がピリピリと痛かったそうである。 山崎は圃場整備は比較的早くにあり、昭和10年代頃に実施されたそうである。 昭和40年のあたりまでは水田の耕作に牛を使用していた(城さん宅にもいたそうだ)が、やはり効率は悪くコンバインなどの機械一式を導入したそうだ。 山崎では農業をやっていたのは城さんを含めて3軒しかなく、農協への出荷などにはやはり相当の苦労があったそうである。 また、城さんは郵便局に勤めていらっしゃったので、平日は自分で農作業をすることが出来ず、よその部落から人に来てもらい作業してもらっていたそうだ。 今は、小作料は8俵のうち1俵だけあげればよいが、昔は6俵のうち5俵から3俵半をあげていたそうである。そのために小作人は裏作で麦以外、米はほとんど地主に持っていかれたそうである。戦時中は山の中に、イモや大根の畑、田を申請しないで無断で作っていたそうだ。 94年の干ばつについてもお聞きしたところ、目の前を厳木川が流れているため、そして田は潰していたために被害らしい被害はなかったそうだ。昔にあったとしても、犠牲田をつくったりすることはなく、田に水を入れておいて遊水をつくっていただろうとの事である。元々田をやっている家も少なく力を入れていたわけではないので、被害はないだろう。けれども、横枕からの水路の水は上流から順番に取っていくために、田をやっていた頃は田植えの時期を一週間ほどずらしたのだそうである。 何故田を潰したのかは、河川の改修や道路工事などに引っかかって田を削られるので、元々赤字であって割に合わなかったので、いい機会で田を潰したのだそうだ。
<共有地> 竹林が共有地としてあったそうだ。竹はかやぶきなどと共に住居に使っていたため、非常に重要視されていたのである。そのために竹や竹の子を盗む者が多くいて、それを防ぐために交代で見張りをしていたそうだ。 このように山には竹を植えることが盛んであったそうだ。普通に木を植えても値段が高くつかないからである。 さらに共有地としては、中山側の山に畑があり、主にイモ、大根を作っていたそうだが、山崎の人ではなく中山の人がやっていたそうでる。
<神社など> 山崎には遠見の地ぞうと呼ばれるものが八反田と次郎谷の境にあった。戦国の昔には、敵の軍勢が攻めて来るのを見張るといった意味を持っていたそうである。 また以前には山の方に乙宮(オトミヤ)神社というのがあったのだが、数年前に我々が訪れた城さんの家の裏手にある山崎天満神社の建て替えとともに、そちらへ移したのだそうだ。氏子は戸数の70%ほどで、元々最盛期で21世帯、現在14世帯に減っている山崎では氏子代に関して特に問題はなかったそうだ。 祭礼は、春に豊作を祈り秋には収穫に感謝する祭りをしていたようだ。
<古道など> 古道は、今の県道にほぼ同じであった。 山には特別なものは特になく、しいて挙げれば天満神社にあった杉の大木ぐらいだが、特に呼び名はなかった。
<今までの変化とこれからに対しての展望> 城さんのお話によると、山崎は最盛期で21世帯、現在14世帯に減ってしまったそうだ。 展望をお聞きすると、特にないが、田を潰した土地は狭いため工場が来るわけもなく、自動車修理工場などが土地を買いたいと言ってきても、古タイヤや廃車の置き場になるかもしれないので、他の住人の事を考えると売る事はできないとおっしゃっていた。理想としては、田を潰した土地を住宅地としてもっと戸数を増やしたいそうだ。しかし、よそからやって来た人を嫌がるような人もいて、心配の種なのだそうだ。 昭和30年頃、山崎には子供がたくさんおり、ソフトボールチームが準優勝するなどしていた時期があったそうだ。その時期のように色々な行事ができるようにしたいとおっしゃっていた。今では子供の数は中学生一人しかいないそうだ。元々兼業が多い上に後継者不足で、相知全ての農業も10年程経ったら滅びてしまうだろうとおっしゃっていた。
<6月29日 行動記録> 午前10:05頃 バスを降りて徒歩で前もってアポを取っていた城政治さん宅へ向かう。 午前10:25頃 到着。11:00に訪問する予定であったが、早く着いたのでどうしようかと話していると、城さんが出ていらして、上がらせて頂いた。 城さんは前もって資料などを多数用意してくださっていて、こちらの質問にも丁寧に答えて下さった。(午後2:00頃まで) 午後〜 北側の水田で作業している方6人にお尋ねし、数個しこ名などを教えて頂いた。 午後3:30過ぎ バスの停車場に向かい、待機。 |