【東松浦郡相知町鶴田、佐里上】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97007 麻生賢

1LA97020 井坂智徳

調査日 629()

話者:岡崎実さま (昭和6年生まれ 66)

   山口敏さま (大正11年生まれ 75)

   山口愛之助さま (昭和24年生まれ 48)

   野崎守さま (昭和7年生まれ 65)

 

<しこ名一覧>

村の名前

しこ名

 

 

鶴田

田畑

小字大黒、宮橋のうちに

オグロンタンナカ(大黒ン田ン中)

※小字宮橋の田も大黒と呼んでいる

石割坂のうちに

イシワリザカンタンナカ

(石割坂ン田ン中)

中道、竹ノ谷、イコノ平

イコノヒラミチ(イコノ平道)

佐里上

赤地坂

ヒエダミチ(稗田道)

道納屋谷

シゲミチ(志気道)

 

水利について

鶴田

現在ではほとんど松浦川の水を揚水機で揚水して田に水を引いている。昔は地図中の大溜や鶴田内溜、鶴田東溜、作次郎溜(その他現在では枯れてしまったような堤)などを利用していた。これらの堤は一度に全部の堤が開かれるのではなくて、順次開いていく(1つの堤を開き、そこだけで補えなくなってきた場合に次の堤を開く)形で利用されていたらしい。

1994年の水不足の際も鶴田地区は松浦川の豊富な水量を利用して揚水設備(地図中@)が活躍したおかげで影響はほとんどなかった。むしろ例年より豊作といった具合だったらしい。

 

佐里上

こちらは標高差があるため、ほとんど堤の水を利用している。水路が全ての田に水が行き渡るようにするため縦横無尽に整備されている。堤の開き方についてはほぼ鶴田と同様で、一つの堤で補えないような時に他の堤を開いてサポートする形になっている。

1994年の水不足の時は、長場恵の堤がほとんど空になってしまったので新溜から加勢したという話だった。そのためにポンプ(地図中A、原本は佐賀県立図書館所蔵)を設置して水を循環させて不足を補った。また鶴田地区からタンクに水を入れてトラックで運んだりもした。しかし、収穫に関してはむしろ例年より多いほどだったそうだ。普通は水の流れはそれほどでもないが、この年は水を循環させるために流れが激しく、そのため水がよく入れ替わり、それが良かったのかもしれないというようにお話しされた。

 

水利上の取り決めと水争い

鶴田地区では松浦川の水量が昔から豊富だったおかげで、水争いはほとんどなかった。しかし山あいの土地では堤を利用するので水路の下流域の水が少なくならないように様々な取り決めがあった。その1つが「いせき」である。水路から田に水を引き込むために杭を打つのだが、その本数が定められていた。しかし、水不足になると自分の田に水を引き込むため、この取り決めが破られることもしばしばあり、その度に水争いがあったらしい。現在でもこのような水利権争いは佐賀平野の嘉瀬川流域で起こっている。

 

田んぼについて

私たちが調査したのは鶴田地区であり、田んぼ自体が少ないこともあるためか、田んぼはほとんど小字の名を冠して呼んでいるらしい。また良田悪田の差についてだが、現在では水利、農業技術、肥料などが発達したおかげでどの田でもせいぜい一俵弱ほどの差しかないが、昭和50年以前は松浦川の水をよく利用できる松浦川流域の田では810俵ほどの米がとれたのに対して、山あいの田では56俵しかとれなかったらしい。また松浦川流域の田では河川改修の際につぶされたものもある。

 

肥料について

昔はやはりほとんどが刈敷だったという話だった。その他としては若田の堆肥という話だった。現在では金肥、つまりお金を出して買い入れた肥料を使っているという話だった。

 

入会地について

昔は燃料として木の枝を取ったりしたらしいが、現在では多くが果樹園として利用されているらしい。

 

祭祀について

鶴田、佐里上、佐里下地区の人達はおおよそ青幡神社の神様をお祀りしているという話だった。ただ、なかには他の神社の神様をお祀りしている家もあるそうだ。

 

道について

No.1の表に記した三本の道は一応踏み固められてはいるものの、ほとんど獣道に近いという話だった。しかし昔はよく利用していたらしい。今ではあまり通ろうとする人はいないそうだ。縄手(ノウテ)という言葉にはあまり反応していただけなかった。

 

村のこれから

この辺り(相知町)には昔、三菱の炭鉱があったおかげで今よりも大分賑やかだったそうだ。しかしその頃は炭鉱の鉱害にも農家は悩まされた。炭鉱が閉山された今となっては人口が減少し、産業はほとんど農業に頼り切っている。そのため後継者の問題が浮上している。後継者がいないために放置され荒れた田もあるらしい。また外国からの輸入についても敏感であるようだ。しかし日本を支えているのが自分達の様な農業従事者であるという意気込みというか誇りのようなものが伺えた。



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