【東松浦郡相知町鷹取、梶山】

東松浦郡相知町鷹取、梶山 現地調査レポート

 

1LA97125 佐々木 裕子

1LA97206 濱田 百合子

 

話者:山口 一正さん(昭和2年生、相知生産組合長)

山口 まさひろさん(大正15年生、相知区長)

吉松 一さん(昭和8年生、長部田生産組合長)

 

1.しこ名

 現在、鷹取、梶山と呼ばれている地域は、梶山は相知(大字)へ、鷹取は長部田に含まれている。従って現梶山は小字より狭い地域でしこ名はなく、鷹取も下の原だけを含む。

 そこで、現地の生産組合長又は区長の方もご存知なかったが、明治12年まで旧相知村(現大字相知)の一部である厳木川左岸、平山川右岸の地域(小字六ノ坪、浜白の辺り)に梶山村が存在していたようなので、その地域のしこ名についても参考に記述する。

 

村名

種別

小字

しこ名

鷹取

下の原

シモノドバ (下土場)

タカトリオンセンウラ(高取温泉裏)

シモノハル(下ノ原)

下の原

タカトリヤマ(※1)(鷹取山)

下の原

チャワンガワ

下の谷(※2)

シモダニ(下谷)

ドウコダニ

()梶山

六ノ坪

ロクノツボ(六ノ坪)

ゴノツボ(五ノ坪)

ヨンノツボ(四ノ坪)

六ノ坪

デアイバシ(出逢橋)

ヒワタリバシ(※3)(日渡橋)

水路

六ノ坪

オオミゾ(大溝)

井手

六ノ坪

シンイデ(※4)(新井手)

緑山(※5)

ミドリヤマ(緑山)

※1 鷹取山にはかつて鷹取神社と呼ばれる神社があったが、現在は正確な位置は分からない。

※2 鷹取村(明治22年以前)には小字下の谷は入っていないが、現在は山の境界線がよく分からないので範囲を下の谷まで拡大した。

※3 日渡橋(ヒワタリバシ)は、小字六ノ坪と小字平田、畑江の境界の平山川にかかっている橋である。南北の走る平山川を東西に丁度分ける形でかかっており、“太陽が東から西に渡る橋”というのがその名の由来とされている。

※4 平山川には大溝からつながる新井手(シンイデ)の他に、小字立石に午手の川井手がある。

※5 小字緑山は大字押川に含まれるが、梶山村(明治12年以前)の位置が厳木川左岸、平山川右岸の地域という以外は分からないので、参考として入れた。

・鷹取には鷹取組と呼ばれるものがある。

 

2.村の水利

鷹取

使用している用水名

長部田井堰(ナガヘタイセキ)

長部田村の単独使用

用水源

厳木川

昔の配水の慣行・約束事

特になし

昔の水争いの有無

なし(但し横枕村史には水争有りの記述有)

()梶山

使用している用水名

大溝(オオミゾ)

1795年池原の庄屋であった松隈李右衛門が作ったという水路

用水源

厳木川、平山川

共有している他の村

相知村の単独使用

(六ノ坪、平田、畑江、上園等の小字)

昔の配水の慣行・約束事

特になし

井手の名称

横枕井手(ヨコマクライデ)

新井手(シンイデ)

昔の水争いの有無

なし(大溝ができてからは殆ど水には困っていない)

※厳木川の水を横枕井手から引き、大溝を通って新井手で平山川に合流する。

(横枕井手―大溝―新井手)

その途中、六ノ坪のあたりでは大溝から細かな水路に分かれている。

 

1994年(平成6年)の大旱魃

1795年に大溝がつくられてからは水に困ることはほとんどなく、3年前の旱魃でも少し水量が減っただけで特に困らなかった。

仮に30年前若しくは40年前であっても、大溝は200年前につくられているので変わらない。

・昭和14年の旱魃

平山川が干上がったため、厳木川を通して柳瀬あたりと水を共有した。

2日おきに給水を行った。そのときも少し不便だったがそこまで困らなかった。

犠牲田等はなかった。

 

3.村の範囲

 前述したように梶山、鷹取は狭い地域で、また、山の境界線はよく分からないということだった。旧梶山についてはその境界、含まれていた小字の詳細は分からない。但し、鷹取の下谷の東の谷が現相知と長部田、つまり梶山と鷹取の境界である。

 

4.村の耕地

湿田:六ノ坪(小字)の大溝ぞいの水田(大溝造成以前)

その他の水田は乾田である。湿田では「れんこん」を作っていたが、大溝ができてからは、ここも乾田となる。(生産量も同じになる)

米の生産量:湿田以外の水田…反当8俵(480kg

湿田(悪田)…反当で100 kgの差

(従って、米ではなくれんこんを作るようになった。)

化学肥料:化学肥料が入った後では、乾田では反当9俵になった。

*村の生活に必要な土地

入り会い山:小字押川が草刈場

(刈られた草は大肥“刈敷”となっていた)

 

5.村の道

 基本的に現在の道は古道を整備拡張したものである。

 但し、下村尾部田に三菱の炭坑(昭和8年閉山)があった頃は小字平田、畑江を通る道があり、トロッコ(大八車)が走り石炭を運んでいた。(その後、厳木川を使い唐津へ)

運ばれていたもの:米・石炭(梶山は米の集積場)

※炭鉱で働いていた人々は和田に多く住んでいた。

 

6.祭祀

鷹取、梶山の住民のほとんどが熊野神社の氏子であるそうだ。

 熊野神社はその名の通り、和歌山の熊野神社の流れを汲む神社である。主な行事は正月の初もうで、夏の祇園さん(厄・疫病抜けのためのお祭り)、そして101920日の『くんち』である。

 なかでも101920日の熊野神社の『くんち』は長崎のくんちにもつながるものだそうで、盛大に行われる。『くんち』はちなみに『供の日』が「くのひ…くんひ…くんち」と変化した呼称である。この『くんち』は明治6年に唐津神社の紋章を頂いたことをお祝いしたのが始まりで、山笠の飾り山と大名行列が祭りを盛り上げる。大名行列は、笠原藩が参勤交代の際使用した道具を相知村が譲り受けたことがきっかけで始まった。山笠は福岡で行われるそれと同じで、飾り山を氏子が引いてまわるそうだ。おみこしが先導して、後に大名行列、稚児、やっこが続く。『くんち』はこの地区にとって、1年のうちでもっとも盛大なお祭りである。

 

7.村のこれから

お話の最後に、村の展望についてお伺いした。

 「炭鉱があった頃はにぎわっていたが、閉山後は3万人いた人口も1万人に減少するなど、過疎化の一途を辿っている。世帯数は増えつつあるが、それは、今は昔と違って親と子が世帯を別にするようになった為であり、人口は確実に減少している。この現状を打開する為に行政としては、相知町に永住したい人へ助成金を出してつなぎとめを計るなどの試みをしているが、その効果は残念ながら現段階では見られていない。いかにして転入者を増やすか、それが今後の課題である。」

 あまり争い事もなく、平和な歴史を歩んできた鷹取、梶山。しかし今、『過疎化』という深刻な問題に直面している。百姓をする人間が今ではゼロとなってしまった現状を目の当たりにして、そのシビアな現実を感じ取った1日であった。

 

8.一日の行動

        〜アポなし!?! 取材体験記 in鷹取&梶山〜

 私たちの苦悩の日々は、あの、「区長・生産組合長一覧」の空欄を見た時から始まっていた。

 当初は、「現地で人を見つけて話を聞こう」と考えていた。しかし、まわりの人が『紹介状』だの『電話確認』だのと騒いでいるのを見ているうちに、自分達のこの考えに不安を覚えるようになった。そこで相知町役場に電話して、鷹取と梶山のことを知っている人はいないか尋ねてみたところ、農政課のF係長さんが鷹取と梶山の生産組合長の方を紹介して下さった。電話でアポも取って、これで何とか大丈夫だろう…そう、思いたかった。

 1997年6月29日、快晴である。昨日の台風はどこへやら…と思わせるほどの調査日和…。今日は本当に充実した調査が出来そうだ。あぁ、帽子を持ってきてよかった。日焼け止めクリームを塗ってこなかったのは失敗だったな…、焼けるぞ今日は。肌から煙が立ちそうだ。

 AM1025

 相知町役場の前でバスを降りた。生産組合長の方の家がこの辺りだったからもあるが、それよりも調査の前に見ておきたかった文献が町役場の隣の図書館にあることをF係長さん(前出)に伺っていたので、相知町についたらまず図書館に行くことにしていたのだ。電話で休館日を聞いた時には29日は大丈夫だったはずが、なんと図書館は『閉館』だった。日程を狂わせたのは、すべて台風のせいだ。まったくもう。いきなり出足を挫かれた…しかしこんなことではへこたれないぞ。というわけで私たちは次なる作戦を実行することにした。それは…。

 AM1040

 町役場から歩いて20分ほどのところに『梶山』がある。そう、次なる作戦とは名付けて『アポなし!?!突撃取材in鷹取&梶山』…つまり現地の人とコンタクトを取ることによって何か手掛かりを探そうという作戦である。

 AM1100

 『相知駅』に到着。早速売店のおばちゃんに聞いてみた。

 佐々木(S)「梶山ってこの辺ですよね?」

 おばちゃん「梶山はあの農協の向こう側らへんですよ。ここは浜白ですもんね−」

 S「なるほど」

 なるほど目の前に農協の巨大な建物があるではないか。あそこにいけば何か聞けるかもしれない…そう思いつつ私たちは農協へ急いだ。

 AM1115

 たしかに農協は目の前に見えたのだが、そこへたどり着くまでの道程は遠かった。

 『園芸課』というプレートのかかったドアをノックしてみた。

      トントン(ドアをノックする音)

 濱田(H)「ごめんくださーい」

      反応無し

 H「誰もいないのかな?開けてみるか…」

      ガチャッ(ドアを開ける音)

 そこには誰もいなかった。電気はついているしクーラーもきいているのに…。倉庫の中にも声を掛けたが誰もいなかった。

 AM1120

 農協から出てくると、目の前に1軒の家があった。『住宅地図』によると小松サヨさんという方のお宅らしい。当たって砕けろ!だ。幸い玄関も開いていたのでいきなり突撃した。

 S「私たち九州大学の学生でこの辺の田圃について調査しているんですが、田圃のしこ名とかご存じではないですか」

 小松さん「私はここの人間じゃないんですよ。だからわからんね…あっでもあそこにいる方ならわかるかもしれない。あそこにナスを作っている人が見えるでしょ。あのひとに聞いてみて」

 S&H「ありがとうございました」

 小松さんからは聞き出せなかったけど、なんだか手掛かりに近付いているような気がする。よし、あのナスを作っている御夫婦にアタックしてみるか。

 AM1130 ナス畑到着。

 おじさん「ここは六の坪で、梶山じゃなか」

 H&S「えっ」

 ここは梶山ではない、とおじさんは言った。目の前が真っ暗になって行くような気がしたが、気を取り直して地図を見せて梶山の位置を聞いてみた。しかし、今は境界があいまいになっているらしく、結局ここで聞けたことは「ここは梶山ではない」ことのみであった。

 AM1145

 歩いていると、目の前に『鷹取バス停』を発見した。もうこの辺は鷹取なのか…、いまいち土地勘がつかめないな。境界についてはあとから生産組合長さんに聞くとして…、せっかく鷹取に来たのだからこの辺でまた交流を図ってみる。

 バス停近くのあるお宅の庭先にお邪魔した…というよりも、庭にいたその家の方にお話を聞くことにした。次第に会話も弾んできた。境界はたぶん水路ではないかということ、鷹取でお百姓をしている人は今ではゼロとなってしまったこと、お百姓のほとんどは梶山の人であること等、いくつか手掛かりを得ることが出来た。そして、これ以上のことが知りたいなら、と宮副さんという方を紹介して頂いた。

 AM1210

 宮副さん宅発見。お昼時なのに申し訳ないと思いながら、遠慮がちに突撃してみた。しかしいらっしゃったのは奥さんで、詳しいことはわからないという。御主人は寄り合いに出ているということなので突撃するわけにも行かない。ガッカリしてしまった私たちを見て、奥さんは「この人に聞けばわかる」と、ある方のお名前を教えて下さった。

S&H「…………!?!」

 その名前とは、実は鷹取の生産組合長の『吉松 一』氏だったのである。いままでの時間はただこの名前を聞き出す為だけにあったのだろうか。その方のお宅にならこれから行くではないか(ちなみにPM1:00〜)。愕然とした私たちを見て、一言奥さんがおっしゃった。

 奥さん「あなたたちって私の孫に似ているわ。はじめ見た時、孫が来たのかと思ったもの…」

 その一言にその場は和んだが、しかし私たちはこれまでの2時間の意味を考えると、溜め息をつかずにはいられなかった。

 おかげでこの後の調査が非常にはかどったのはいうまでもない。なぜなら生産組合長以上に村のことを知っているのは私たちの知る限りでは『相知町政史』ぐらいのものであったからである。私たちは今回の体験で、現地調査の難しさをこの肌で感じることができた。本当にサバイバルな一日であった。

 補足:午後からは連絡を取っていた生産組合長の方々にお話を聞くことができた。



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