【東松浦郡相知町杉野】

歴史と異文化理解 78日(火)提出用レポート

1LA97241松石隆太郎

1LA97270  山口圭介

 

佐賀現地調査(629日)についてのまとめ

私達が調査した場所:相知町杉野

聞き取りした方々の氏名と生年:山口 敏さん(75才 大正11年生まれ 男性)

山口愛之介さん(47才 昭和25年生まれ 男性)

岡崎 実さん(66才 昭和6年生まれ 男性)

 

○山口 敏さん、愛之介さんについて

  敏さんと愛之介さんは親子で、現在一緒に杉野に住んでいる。杉野の方で昔から農業を営んでいらっしゃるそうで、杉野にとどまらず、相知町の中でも12を争うほどの大農家だそうである。もちろん専業農家である。現在、農業を中心になってやっているのは愛之介さんの方で、敏さんもやってはいらっしゃるようだが、若い愛之介さんが後を継いだという形になる。愛之介さんはまだ若いにもかかわらず杉野の生産組合長をやっておられる。敏さんはそのお年通りに、古い知識をたくさん持っておられる方である。

 

○岡崎さんについて

  岡崎さんも現在杉野に住んでおり、農業を営んでおられる方である。もともと杉野に住んでいたのではなく、佐賀県内の他地域から移ってきたらしいが、岡崎さんが子どものころはもう杉野にいたという。岡崎さんは、以前、杉野の区長を6年やっていたということで、農業に関してもかなり詳しい。

 

 

1)私達が集めたしこ名の名称

  相知町杉野周辺:ショウブノイケ、キンズモリ、コグルメ、エノクボ、トバ、チュウガク、フルカワ、シモフルカワ、カミフルカワ、計9

区分けすると次の図のようになる。

 

田畑

小字 杉野のうちに

ショウブノイケ[漢字名:菖蒲池]

キンズモリ[漢字名:金図森]

小字 和田のうちに

コグルメ[漢字ナシ]

(同じ場所を、別にエノクボ[漢字ナシ]と呼ぶそうだ)

トバ[漢字名:鳥羽]

チュウガク[漢字名:中学]

ほか

小字 杉野のうちに

フルカワ[漢字名:古川]

 →小さな川(溝)のしこ名

小字 和田のうちに

カミフルカワ[漢字名:上古川]

シモフルカワ[漢字名:下古川]

 

2)それぞれのしこ名についての説明

 @ショウブノイケ[菖蒲池]

   この田んなかは、もともと湿田だったそうで、そのころは米があまり収穫できない悪田だったという。しかし、昭和7年以後は、田んなかの耕地整備により立派な田んなかへと生まれ変わり、米がよくできるようになったということだ(悪田から良田へ)。

   また、このショウブノイケから見てすぐ北に位置する田んなか(地図中のTの地域)〔添付地図省略、原本は佐賀県立図書館所蔵〕は、ショウブノイケが湿田だったころは桑畑が軒並ならんでいて、松浦川の川沿いは桑畑がズラーッとあったそうである。ここもやはり耕地整備により、現在は桑畑がなくなって、田んなかになっている。

 Aキンズモリ[金図森]

   この田んなかは、昔はその名にもあるように森だったそうだ。これがそのしこ名の由来の1つだと思われる。岡崎さんは小さい頃よくこの森の中に入って遊んでいたらしく、このしこ名のことはよく知っておられたのだが、そのときにこのしこ名のもう1つの由来を聞くことができた。この森の中には1つのほこらのようなものがあって、それには「『金図教』の神様」が祀ってあったそうだ。『金図教』というのがいかなる宗教で、尊師がいたのかなどは全くわからないという話だったが、当時その森の周囲に住んでいた人達は、『金図教、金図教』といっていたそうなので、『金図教』に対する多少の信仰・信心はあったように思われる。

   また、現在もそのほこらは存在するそうだが、その森を田んなかへと整備しようとする際に、ほこらの位置を端っこの方へ移動させたそうである(これも地図に示しておきます)。岡崎さんはほこらを移動させたことを鮮明に覚えていた。自分もほこらの移動を手伝ったふうに言っていた。

 Bコグルメor、エノクボ

   この2つのしこ名は同じ場所をさし、人によってコグルメと呼んだり、エノクボと呼んだりと異なるそうである。名前の由来は不明。

 Cトバ[鳥羽]

   このしこ名は、昔、その付近にいた鳥羽さんという人が、そこの田んなかを耕作していたことから、単純にそういう呼ばれ方をするそうだ。

 Dチュウガク[中学]

   この田んなかは、昔、中学校のグラウンドだったそうで、戦争時に運動場を畑もしくは田んぼにつくりかえて農作物を作っていたことから、その名がついたそうである。

 Eほか

   フルカワ・カミフルカワ・シモフルカワはそれぞれ溝、つまり田んなかの用水の名前であり、子どものころから「フルカワ、フルカワ」と呼んでいたらしい。

 

このくらいの数しかしこ名は聞くことができなかったが、こういう名前はもう農業をしている方達でさえ今はあまり使わないそうだ。昔の話であるが、山口さんから農地を買った人などの名前で、その田んなかを呼んだりしていたそうだ(今はもういない)。

 

3)地形

   杉野の地形は典型的な盆地であり、平野でもなければ、山というわけでもなかった。従って ・ほりはない

      ・水路にしこ名はついていない

      ・橋はそのまま普通の呼び名(和田山橋)で呼ぶ  のだそうだ。

   また、地図中Uで示した山は、通称和田山(ワダヤマ)というそうだが、これはしこ名ではないようだ。山道や岩や大きな木など目印になるものに付けられた名前も特にないそうだ。

   焼き畑が行われていたかどうか聞いてみたけれども、焼き畑はされておらず、キイノ(切り野)もないと言っていた。

 

4)村の水利

   杉野は山あいの盆地であることから、その山あいに堤を設けることによって水の問題を解決してきた。その中でも『三段堤』と呼ばれる、三つ連続して存在する堤(地図中のV)が中心となっている。田植えの時期が近づくと、まず、三段目(一番低いところにある堤)の水を田んなかへと引き入れ、三段目の水量が減少すれば、二段目の水を三段目の堤に流し入れる。同様に、二段目の堤の水が減ったなら、一段目(一番高い所の堤)から水を流す、といった具合に利用している。

   しかしながら、水の問題は堤の存在だけでは解決できず、当然水争いという問題も村の中では起こったそうだ。昔はというと、田んなかに水を取り入れる上で、水路に杭を打ち、それによって水の流れをせき止めるという方法を用いていた。そして、村の中では、その打つ杭の本数を事細かく取り決めていた。一定数以上の杭を刺すと、水が下に行かず、堤から下流にあたる田んなかへは水が流れないからである。しかし、やはり水を得るために規定以上の杭を打ったことが原因で、よく水争いが起こったそうだ(ちなみに、村と村の間での水争いはないという)。

   また、3年前の1994年の大旱魃があったときはというと、役所からの援助もあって、農業に携わる者が共同でポンプを買って、松浦川から直接水を汲み上げて対応した。また、最近は松浦川の河川整備をととのえるのと同時にポンプを設け、堤とポンプの二段構えで水不足に対応している所も少なくないそうだ。

 

5)特質的な杉野の農業(炭坑との結びつき)

   杉野は純粋な農村ではなくて、もともとは炭坑の町であったという。この炭坑は三菱相知炭坑(通称和田山炭坑、地図中W)であり、炭坑全盛期には4000人ほどの人々が働いていたという。この炭坑があったころは、各地から人々が働きに来たり、ここに移り住んだりした(大正〜昭和にかけて)。このとき、そうやって炭坑の仕事にやって来た人々の中に、ついでにしようといって、農業を始めたそうである。また、杉野の農地を耕作しに相知の方から通っている人もいたらしい。つまり、炭坑中心で栄えていたときに、人々が副次的に始めたのが杉野の農業の特徴であり、他の地域と異なる特質的な点である。

   ちなみに、相知炭坑は昭和7年終了、昭和8年閉山したそうだ。その結果、農業だけがずっと残ってきた、という形になる。

 

6)その他

 (@)肥料  昔(戦前)は草を枯らしたもの=堆肥をつかっていたという(刈敷)。

 (A)「シュウジ」(小路)について

     これはいろいろ説明をくわえてたずねてみたが、「小路」という字を見せたとき、「シュウジ」とは呼ばないで、「コジ」と呼んでいた。読み方がちがっていた。また、杉野では「小路」の名前は聞いたことがないそうだ。

 (B)村の道

     「〜ノウテ」のこともたずねてみたが、ご存知なかったです。

 

7)村のこれから

        現在、杉野の方で農業を営んでおられる方は4軒しかいない。他はすべて勤めの人ばかり。終戦後のころにはまだ17軒もあったが、その後1960年代には10軒に減ったりと、農家の数は徐々に減少してきている。

        農業が衰退していく原因としては、収入がおぼつかないということが挙げられる。農業だけをしていても“メシがくっていけない”ということが、1つのネックになっている。そのため、どうしても勤めに行き兼業農家となり、農業は収入の小さな部分を占めるのみになってしまったり、農業を捨ててしまったりするのである。

        また、金銭面に関して、次のような悪循環が存在する。

 

<農業>

収入少ない → 効率よく農業しよう! → 大型機械導入したい

    ↑                      

     ←――――― 借金して購入 ←――――― お金がない

       ↓

借金返済のためメリットが少ない

→すたれていく。これを改善することが1つのポイントである。

 

さらに、若い世代の農業離れ、後継者不足はいなめないという。せっかく田んなかがあっても、後継者がいないから田を売ってしまったという人もいる。もし、会社勤めが定年になった人が農業を始めようとしても、60歳を過ぎてしまい、知識に欠けるものがあり困難である。

このように、これからの日本の農業は決して先が明るいものとはいえないが、自然を守る役目も担う農業を日本から消滅させてはならない。また、現在は自由貿易で、米も外国産の安いものが輸入できるとはいえ、国はできるだけ国内の農業を重んじて、援助すべきである。使用されなくなった田んなかは荒れ果てるばかりである。減反政策もふまえて、国土荒廃につながることはしないようにしてほしい。国は環境保全のために補助金を出してでも、ぜひ農業を守ってほしい。こういった願いを最後にしておられました。

<おわり>



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