【東松浦郡相知町白木々場】

東松浦郡相知町白木々場 現地調査レポート

 

1LA97231 藤江

1LA97235 藤野 顕史

 

話者:秀島 文代さん(62歳)

秀島 智江子さん(88歳)

秀島 正一さん(年齢不明)

 

<調査の行程概況>

 バスで相知町まで約2時間かかった。相知町の長野というところでバスを降りて、目的地までは徒歩で約1時間。付近を流れる伊岐佐川に沿って急な坂道に閉口しつつ歩き続けた。

30分歩くと橋があって、車が2台止まっていた。そこには玉散滝と呼ばれる滝があり、その風景にしばし足を止めて滝を見た。あまりにもすばらしい景色であったので、カメラを持ってくればよかったと後悔した。滝には地元の人とその知人の計4人がいた。春日市に住む知人を滝まで案内したそうだ。その地元の女性に早速調査事項を聞いてみると、「あまり知らない」との答えが返ってきた。しかし「もっと上のほうに家が数軒あるので、そこに聞いてくれ」とも言われたので、その通りにしてみることにした。

30分ほど登り続けると漸く白木々場地区に到着。住宅地図によれば家が数軒しかなく、その少なさに驚く。1軒目の人に聞くと、「しこ名はない」と言うので、仕方なく2軒目へ向かった。2軒目と3軒目は隣同士であったが、3軒目の屋根がワラでできているのには驚いた。2軒目の男性からもしこ名は聞くことはできなかったが、1994年の大旱魃の時の話は聞けた。3軒目は留守だったので4軒目に行くと、比較的若い男性がいたので聞いてみた。この男性の母親が先程玉散滝で出会った人であり、この男性は母親が色々知っていると言い、滝まで聞きに行って下さった。その後で3軒目のおばあちゃんがいたので話を聞く。調査内容の他に、彼女の60歳の長男が町の方に家を新築するので、彼女も9月にはこの白木々場を離れてその新しい家に住むということを聞いた。若い人だけでなく高齢の人もこの地区から出ていくとなると、この白木々場はどうなるのだろうとふと考えた。彼女に礼を言って更に上の方へ進む。5軒すべてを訪れてわかったことは、白木々場地区ではすべての家に小さな池があり、コイなどを飼っているということだ。各家のほかにも、更に上の方にはもっと大きな池があり、コイが2030匹ぐらいも泳いでいた。

住宅地図によると、更に上の方には神社があるようなので行ってみたところ、「天照皇大神」が祀られていた。これは村の人によれば山の神らしい。滝まで降りることになって、途中で先程の男性とその母親に会う。「しこ名は知らない」と言っていた彼女は、実は5〜6個も知っていた。しこ名の他に氏神のことも聞けた。

これでたいていのことは調査できたので、バスのりばへ帰った。バスが時間通りに来ないので頭にきたし、帰り道は混んでいて更に頭にきたが、しこ名も結局は11個ぐらいも知ることができてよかったと思う。

 

○しこ名一覧

小字名

しこ名の種類

しこ名

備考

白木木場

(しらきのこば)

地名として

・トウゲンシタ(峠下)

 

・ヒライシ(平石)

・タテヤマ

・オサキ

・由来はそのまま、この地区の一番高い所(峠の下)にあるため。

 

 

・この地域の近くの橋(尾ア橋)はこの地名が由来である。ただししこ名には違う字を当てるらしい。

田畑として

・ゼイノ(の畑)

・ナカドイ

・ヒクミ

・カゲンタン

・シンヤ(新家)

 

 

・シンデン(新田)

 

・ツクリザクラ

 

 

 

・棚田の陰にある田のため

・この辺りに新しい家が建てられたため、その田をこう呼ぶようになった。(いつ頃かは不明)

・名前通り、この地区の中では新しく作られた田であったそうだ。

その他

・その他として、道の途中の大きな石にも何か呼び名があったらしいことが判明したが、思い出してもらえなかったため、残念だが書くことは出来なかった。昔からそれは山の神の岩とされ、社と同様に崇められていたそうだ。

・橋の名前として、玉散橋・尾ア橋・平石橋がある。全て新しくされたものなので昔の姿は不明である。

 

<村の水利について>

 水田にかかる水は、すべて伊岐佐川からのものである。地図に記しているが、川の水は2箇所の堰から取り入れていた。用水は別に他の村との共有ではなく単独であった。であるから、特に他の村との水をめぐる争いはなかった。厳密に言えば、争いがなかったのは下の村の水源が玉散の滝以下のものが加わるためであり、共有でなかったわけではないが、玉散の滝より上は一応は単独であったということになる。

 

用水源

共有している村

伊岐佐川

白木々場以外の全ての村

取り入れ口

決めごと

・オザキのせき

・名称不明

(計2箇所)

特になし

 

1994年の大旱魃の際は、当時地区の区長であったクガマサトさんという人が、いち早く対策を講じたため大事には至らなかった。つまり、地区住民からお金を徴収して、そのお金で水を汲み上げるためのポンプを購入したのである。購入したポンプの数は2〜3台だそうで、このポンプのおかげで大旱魃にも関わらず、白木々場地区では凶作どころか豊作であったそうだ。白木々場の人が言うには、クガマサトさんは機転の利く、頭の回転の速い人だったそうだ。クガマサトさんは今は農協で重役に付いていらっしゃるそうだ。

玉散橋の付近には農業用ダムがある。これの役割は一度そこで止めて下へ流すことで、ある程度水を制限することにある。

 

<村の範囲>

 地図上の緑色で示した尾根づたいとほぼ一致する。現在この地区の周りはほぼ国有林であり、林業を営んでいる。人がいないため山の部分は調査できなかった。しかし林業を営んでいるだけあって山の一部の木が伐採されて、そこだけ剥げているようだった。そういう所は2〜3箇所あった。

 

<村の耕地について>

 圃場整備以前は、現在よりも住民は非常に多くの耕地を持っていた。具体的な数字などとしては、聞いてみたが発見できなかった。しかし、この耕地の減少がだんだんと人が下山する要因の一つであるらしかった。また、山深い土地であるため、農業をするための適した開けた土地も少ない。88歳のおばあちゃんはしきりにこのことを言っていたのが印象に強く残っている。

 

<村の道>

 現在通っている道の他に、古道と呼ばれる昔からの道を2箇所発見できた。そのうちの1つはかなり長い距離であり、その道を通って村の上の方にある作礼山に行っていたそうである。その道は圃場整備以前からあったので、かなり昔からあったのだろう。ただし、この道は車は通ることができないので、作礼山を通って隣町へ行くのはかなりの重労働であった。この古道は車は通らないが、アスファルトに舗装された道はかなりの数の車が通っていた。この車は白木々場の人のものではなく、隣村からのものであった。

 

<村の祭祀>

 この地区では2つの神社がある。1つは歩いて行ける範囲であった。調査概況にも記したが、地区の人から山の神とされている天照皇大神が祀られていた。もう1つは、実際は見ることができなかったが氏神様が祀られている。白木々場では権現様と呼んでいた。なお、今は白木々場は祭りの時期らしい。しかし祭りとは言っても地区の人たちが集まって酒を飲む程度のものらしい。注目すべきことは、下の村々は川や水の神を奉っているが、ここの人々は山の神ばかりを祀っていることだ。これは山深いところであるという地理的土地要因が関わっていておもしろいと思う。

 

<その他・歴史的事実>

 白木々場地区の昔について88歳のおばあちゃんから聞いたことだが、昔ここに2人の兄弟がやってきたらしい。その2人というのは結構身分の高い武士であったそうである。2人は豊臣秀吉の九州制圧の際にキシタケ城という城を攻め落とされて、命からがらこの白木々場地区に逃げてきたそうである。その2人のうち兄の方は白木々場にしばらくとどまった後、この地区の更に上の方にある平野(ヒラノ)というところへ行ってしまったそうであるが、弟の方は白木々場にとどまり永住したそうだ。この弟が白木々場の秀島氏の祖先である。そのためであろうか、お墓はとても立派であった。(墓地は地図参照)

また、この地区のたいていの家には池があり、大きなコイが飼われていた。これも昔からの名残ではないかと推測されるようだ。

話は少し変わるが、昔はこの白木々場地区は炭を作り、それを売って生計を立てていることがわかった。当時、付近の国有林が競売へ掛けられ、お金持ちが買い取って炭を作って売っていたというのだ。しかしこのような小さな地区でもいわゆる機械化の影響を受けて、炭では生活できなくなるという状態になった。そこで現在のような、水田によって生活する形態になっていったのである。

 

<村のこれから>

 概況にもちょっと書いたが、若い人だけでなく年配の方もここを出て行くようである。もちろん今すぐ全員がいなくなるわけではあるまい。しかし衰退の道を進んでいるのは確かである。山の下の方に住む息子さんたちが水田の手伝いをしに来てくれるらしいが、住民の数は減り続ける一方である。昔は家も11軒ほどあったらしいが、今ではもう4〜5軒しかない。この白木々場を訪れた際、「なんて緑の多いところなんだろう」と感じ、自然の多さに感動したが、やはり住みにくさはどうしようもないらしい。この白木々場から人がいなくなってしまうのは寂しい気がした。



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