【東松浦郡相知町佐里上】
歴史と異文化理解A 現地調査レポート
1LA97252簑原睦
1LA97275山下昌也
1LA97022石川裕基
調査日 6月29日(日)
話者:山口安次さま:佐里上地区長である。
井手豊光さま:昭和4年生まれ。
古賀富久雄:大正12年生まれ。
及び、ゲートボール場に集っておられた年配の方々(他地域の方含む)
<佐賀県相知町佐里上地区におけるしこ名及びその他の歴史的事物一覧>
村名
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分類
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小字
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名称等
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説明及び関係事項
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相知町佐里上地区
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しこ名(田畑)
※下の方にあと3つ記載
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谷口
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・ヤシキアト(屋敷跡)
・フルヤシキ(古屋敷)
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・大正の終わり頃まで、この田畑がある場所に地主の大きな屋敷が建っていたことに由来。
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明神
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・ジュウハチコカド(十八ヶ角)
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・田が複雑な形をしていたことに由来。
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しこ名(水路等)
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※ほとんどが小字の名前をとって呼ばれる(呼ばれていた)そうだ。
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・水路、橋などについては、特にしこ名にあたるものは聞かれなかった。しかし、水車小屋について、しこ名もしくは屋号と思われるものがいくつかあった。(以下に説明)
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しこ名(水車小屋)
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赤地板
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・クルマヤ(車屋)
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中村
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・ヤマミチ(山道)
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・山に入る道の入口付近にあることに由来。
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しこ名(田畑)
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ナンゾ
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・オカンノンサマ(御観音様)
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・付近に観音堂があるため。
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宮橋
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・ツルダ(鶴田)
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平野
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・オンセン(温泉)
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・付近に温泉があるため。
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小路
古賀
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・これについて情報は得られなかったが「古賀」という名称はこの地域に大変多いそうである。
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屋号
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イバ山
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・ヒジキ(漢字は不明)
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・区長の山口家が以前、こう呼ばれていたそうだが、由来は家の人達にも不明とのこと。
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飛松
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・トビマツ(飛松)
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・飛松に住んでいる古賀家のことを通称「トビマツ」と呼んでいたとのこと。
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村の道(縄手)
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※これもやはり、小字の名で呼ばれていたそうだ。
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水利について
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・主に長場恵・新溜の2ヶ所の溜池が水源。水路を境にして、どちらの溜池から水を引くかが決められている。しばしば水路付近で争いが起こった。ポンプを使用しているところもある。管理は当番制。また、平野・川ヘラ・宮橋等の地域は松浦川も利用。ちなみに、松浦川にかかる鶴田橋は昔と位置が異なる。
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田畑について
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※良田…松浦川付近(オンセンやツルダ付近)
悪田…トシヲ原、横手、木場口、佛谷、ナンゾ付近
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・戦前はカッチキ(苅敷)・牛馬糞・人糞が肥料の主流。最近、化学肥料が入ってからは、やはり収穫量が増えている。左に示した良田と悪田の差は、水利によるものが大きい。松浦川付近は上質な土地だそうだ。
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入会地について
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※ナンゾ付近及び平松・長場恵・岸岳・赤地坂より北の山林地帯に存在。
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・入会地は肥料や薪を手に入れる場所として発達。現在は、植林地域となっており、個人所有である。平松・長場恵等より北には、現在は官山(政府所有)になっている地域もある。
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祭祀
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宮の下
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・青幡神社
[1月1日:元始祭
4月第3日曜:春季大祭
7月第2日曜:夏祭
9月23日:秋季大祭
11月23日:新嘗祭]
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・この地域の氏神。平成元年に500周年を迎えている。明治時代の氏子数170戸、平成5年には180戸。農業豊作・安全祈願の神。左に示したように部落行事としての祭がある。
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ナンゾ
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・観音堂
[秋の彼岸:秋祭り]
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・家内安全・五穀豊穣を祈願、近所の人々によって自主的に運営されている。
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村の生活と今後
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・買出しや商業関係は唐津まで出かける。今後に関しての最大の悩みは、何と言っても若年層の都市部流出とそれに伴う後継者不足。将来的には、各個人所有の田畑を農協が代理で耕作する時代になるかもしれないとのこと。他家に代理を依頼する動きも少しずつ見え始めている。
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<全体を通しての考察・感想>
今回の調査を通して強く感じたことは、我々が調査の対象としていた歴史的な事物の衰退・消滅の激しさだ。地区長やその他かなり年配の方々、いわゆる物知りとされているような人々に尋ねても、特にしこ名についてはほとんど御存知でなかった。小字の名前さえ出てこない場合も少なからずあった。調査前のアポイントメントはスムーズに取ることができたのだが、調査当日はあいにく地区の御年配の方々(特に男性の方々)のほとんどが団体で旅行に出られており、調査はますます困難を極めた。以上のような理由で調査結果は、特にしこ名に関しては満足のいくものではないが、その中にも我々に消えゆく歴史について考えさせる要素は確かにあった。
まず、しこ名・屋号等の歴史的名称についてだが、その種類は実に様々であった。由来等が一目でわかるような単純なものから、本人達でさえ由来のわからない難解なものまであった。
また水利に関して、この地域は元来水を引きやすい地域ではないらしく、その上、非常に近接した地域でさえ厳しく用水源を分けていたことなどから、用水を巡る争いは比較的多かったそうである。3年前の大旱魃の際はポンプを利用したり、数ヶ所で流れをせき止めて水の流れにくい田畑に水を流したり様々な対策を講じたそうだ。それでも水の足りない田畑へは、範囲外の溜池からも水を引いたらしい。(例えば、長場恵の田畑が新溜側から水をポンプで引く等) もし、40年前に旱魃が起こっていたらどうだったか、という質問に対しては泣き寝入りするしかなかっただろうとの答えが返ってきた。このあたりの地域は、40年前に旱魃の対策ができるほど発達していなかったとのことだ。
また、農村地区共通の悩みをこの地区も抱えていた。人手(後継者)不足である。我々も含めて若年層が農業から離れていくのは理解できないこともないが、しかし誰かがやらねばならないのである。もう一度、農業の良さを見つめ直すことが必要ではないだろうか。今回の調査はそのきっかけになるものでもあると考える。
最初にも述べたが、この調査の困難さそのものが、農村地区の生活と未来、そして悩みを如実に語っているように思えた。このような調査をすることで、歴史的事物が忘れ去られていくことを少しでも止めることができたら、それが何よりの成果ではないだろうか。