【東松浦郡相知町佐里下】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LA97279山野史寛 1LA97236藤木尚季 調査日:6月29日(日) 話者:加唐重利さま:区長である。 堤駕さま:佐里下区域の基盤整理の責任者である。
相知町について 松浦川(西川)と厳木川(東川)の合流点南東部の平坦地に位置する。地名の由来は両河川および伊万里道と佐賀道の「逢ふ地」が「おうち」になったという。古来より東・西松浦郡の文化、経済の交流点である。
佐里村について 松浦川の中流の盆地に位置し北に岸岳を背負い、南東の日の河内山嶺が相対する。
<しこ名一覧>
しこ名調査の結果 しこ名を調査した結果、田畑だけが字の統一を行ったということがわかった。他の地域では呼び名はずっと変わっていないそうだ。テラノマエ(寺の前)というしこ名は今現在ある鎮道寺を指すのではなく、昔あった寺の前という意味らしい。そのお寺は現在ない。また田畑以外で1つあったしこ名の学校山は昔、この村が炭鉱の村であった頃そこに学校が存在していたためそう呼ばれたらしい。
水利と水利慣行について
旱魃について 1994年(平成6年)の大旱魃についてであるが、この年の旱魃が今までで最もひどいものだったらしい。この年には村への最も主要な水の供給源であるゴウメキ溜は枯れてしまい、また松浦川もただの水たまりになってしまったらしい。そこでユンボで溝を深くして水を流した。また水をもう使わなくなった消防ポンプを使って汲み上げたりもした。また松浦川の上流の水がまだ残っている地域からとり出していろいろな方面へと流した。あと2日でもうすべてが終わりだという時に雨が降り、村は何とか助かったらしい。まだ旱魃はこの他にも昭和35年か36年頃、昭和42年、昭和19年頃に起こったらしい。またこの1994年のような大旱魃が30〜40年前にもし起こっていたら、とても手に負えず、村は大変危険な状態になっていただろうと教えられた。
水害について またこの村は300年以上も昔から水害に悩まされていた。特に最近では昭和45年である。この地域では一度水害が起こってしまうと50cm〜60cmも浸かってしまい、田んぼはもちろん家の中まで浸かってしまうらしい。お話を聞いたお二人の家も浸かってしまわれたらしい。水害は長い時で半月も浸かり、そのため移動に船を使うほどだったらしい。
橋について 昔の橋は飛び石でできていて、その後低い橋となった。その低い橋をもぐり橋と言う。その後今の橋となった。村に橋は2つだけらしい。
古道、里道について 昔は主要地方道相知・山内線はなく、佐里小学校前を通るやや大きめの道が主要な交通路となっていた。また里道と呼ばれるものが古くから存在していたらしい。里道とは自分達の都合で作ったものであり、必要性に応じて作られていたらしい。今ではその里道は地元の人々が管理をしているが、権利は国にあり、もし修理が必要な時などは村の人達が自分達でしているという現状があり矛盾が生じているらしい。
村の流通について この村での流通では昔から陸上よりも水上での方が盛んであった。昔は松浦川を通して生活物資や着物などが入ってきていたらしい。そのための廻船問屋などの船が松浦川を行き来する姿が見られたそうだ。今では川を通しての流通はなく、陸上が主である。
村の水田の大まかな歴史について この村にあるその水田は意外に新しいものであるらしい。この村は明治以前もっぱら炭鉱の村として知られていた。その後原野を切り開き、まず除塩のためもかねて綿を作り、その後に桑・除虫菊・サフラン・マホランなどを作っていたということである。しかし明治中期以降はこれらの作物の流通は大手業者が握り、また外来物も強かったため、農家の取り分が少ないこれらの物では小さな農村では対抗できなくなり、ここで初めて商屋堤を作り水利の利く範囲で水田を始めたのである。水害に遭っていたこの村では水田を作ることが難しかったが、その水害も昭和48〜50年にかけての大幅な基盤整備によって恐れる必要もなくなり、水田を増やすことが可能となった。どのような基盤整備が行われたかについてであるが、全耕地の13.7%にあたる8.5町歩にも及ぶ河川敷を提供し、また田んぼことに幅員5mの幹線、農場4mの支線とその延長4,550mを新設したらしい。またこの整備の途中に掘り返している土の中から土器ができたらしい。しかしこのことが国側にばれてしまうと工事がストップするためそのことは秘密とされた。また近くの所では研究者によって鏃が発見されたらしい。またこの地域で使われた肥料であるが主に魚粉、草だったらしい。
水田の高低差について 昔は旱魃にも水害にもあっていた。この地域でも特に小字前田の中のゴウノモトという地域は特に低く水害に遭いやすく、また小字松の浦という部分は旱魃に遭いやすかったらしい。
屋号について この地域では屋号はあめがたや、あぶらや、はがきやなど何を売っているかについての屋号しかなかった。その人達は祖先がそのような職業に就いていたようである。
自分たちの日々の行動について 自分たちはこの日、8時30分に学校を出発し、10時30分頃に目的地にたどり着いた。調査させてもらう加唐さんのお宅はすぐに発見したが、11時からという約束であったのでその間村の中を散歩してみた。自分達が想像していたよりもはるかに家も人も車の通りも多かった。しかしそこには澄みわたる空気があり、のどかな光景があり、田んぼのその向こうには山がそびえ立っていた。農村なので若い方が少ないかと思っていたからそうでもなくて子どもも結構たくさん見かけた。11時になり加唐さんのお宅へと伺った。今日はどうしても11時から2時ぐらいまでしか都合が悪く、その時間しか話を聞けないということだったので、お昼時と重なって非常に失礼だと思ったがお話を聞かせてもらった。話を聞いているともっと圃場整備などに詳しい方がいると聞き、あとでその方の家に伺おうかと思いお名前を尋ねると、加唐さんはその方、堤さんを加唐さんのお宅まで呼んでくれた。そこでお二人に記憶をたどりながらお話をしていただいた。大変ありがたかった。 ところでしこ名についてであるが、田んぼしかしこ名が分かっておらずしかも数はこれだけしかないということだった。2時少し前にお話を聞き終り、お礼を述べて失礼した。大変親切にしていただきありがたかった。時間はまだ少しあったが二人でその村の雰囲気を味わっていたら時間が来たのでバスの停留所へ行きバスを待った。そしてバスに乗って6時過ぎに学校へと着き一日の調査が終わった。 あまり授業以外では体験することのない貴重な体験をしたと思った。二人とも終わった後この佐里下村に近親感を感じていたし、村の人の温かい心に触れられて良かったと思った。 |