【東松浦郡相知町尾部田】 東松浦郡相知町尾部田 現地調査レポート
1LA97152 田中 享子 1LA97163 寺崎 麻衣子
話者:小松 正彦さん 昭和17年7月生(54歳) 小松 ツヤミさん 昭和9年2月生(63歳)
<しこ名一覧>
<水利と水利慣行について> ・尾部田生産組合の水―――平山川と八幡岳の大きなため池2つ。 「オヤシキ・ユキバル」から水を引く。 井戸は使っていない。 *尾部田生産組合→西谷・向野・新田・尾部田・大屋敷 ・昔の配水の慣行・約束事―“イセキ”という仕切りの石で区切られていた。 ・昔の水争いの有無――――干ばつの時は数軒あったが、公にはなかった。 水不足の時はシミズガワの水を利用した。 ↓ 山から湧き出る川の呼び名 ・1994年の干ばつ――――田んぼの被害有り 犠牲田として米からみかん・杉・クヌギの植林に変えたところもあった。 米を作るところは山からの出水・川水を利用したり、大きい川の水をポンプで引いたりした。 水稲(農業)共済から保険金が出た。 ↓ 掛け金安い 国からの補助もあった。 *もし30年前に起こったら?…保険金も出ないので大変だったろう。
<農作業について> ・良田・悪田――昔は麦野の地力が弱かった。 しかし現在は肥料が発達しているため、良田・悪田の差はなくなっている。 ・裏作―――――山一帯は寒いので米だけを作っている。 里では裏作物として玉ねぎ・麦などを作っている。 *昔は裏作物として菜種油などを作っていた。 ・肥料―――――昔…山の野花を摘み牛ふんを混ぜて、たい肥を作っていた。 今…化学肥料 ・燃料―――――入り会い山からではなく、みんな個人の山から取っていた。
<尾部田について> ・住んでいる人の姓―尾部田の村の中には32軒の家がある。 32軒内訳… 27軒 小松さん 3軒 久保さん 1軒 田中さん 1軒 中島さん(昔は小松さんだったらしい) 27軒の小松さんの中には、血縁関係がある人とない人がいる。 また、初めからいる小松さんと最近来た小松さんがいる。 ↓ 平家の落人(平繁盛の子孫では?) :尾部田は天領だったので出入りがわりと自由 ・名前の呼び分け―32軒中27軒も小松さんがいるにも関わらず、名前を呼び分けたりすることはない。だから、小松さんは小松さんと呼ばれたり、姓でなく名で呼ばれたりする。 ・リンポハン(隣組)―尾部田32軒を上組と下組に分けている。 ↓ ふれ事(葬式など)を一緒にする *上組20軒 下組12軒 ・昔から伝わるお祭り―7月29日 祇園祭り 以前(昭和39年くらいまで)は盛大に行われており、芝居が来たり出店が並んだり玉かえ(金・銀)をしたりしたが、現在はちょっとした小さなお祭りとなっている。 8月14日 盆踊り 鎮守神社で毎年必ず行われる。 11月 猿神様のお祭り 11月の申の日に、3軒ずつ順にご馳走(赤飯など)を作ってお供えする。昔、身ごもった猿を銃で撃って部落の子供が育たなくなったため、年に一度祭るようになった。 ・入り会い山―お宮様の持ち物。しかしみんな個人の山も持っていた。 ↓ 西谷、深谷、草住神社、弁天様 ・隣村への行き方―昔は徒歩のみ。 厳木方面へは伊万里市のタツガワを通って 尾部田→厳木 厳木→尾部田 ナミデ峠 ヒラヤマ峠 イワヤ峠 タツカワ峠 やって来る方向によって通り道の呼ばれ方が違った。 学校…平山小学校→相知中学校 高校は唐津市の方まで行く ・旧道―小松正彦さんの家の裏のところに江戸時代からあったが今はない。 農作物が牛馬によって運ばれた。 殿様の通り道でもあった(小松正彦さんの祖母は見たらしい)ため、現在でも毎年七夕の日に村の人みんなで道を掃除する。(「みつくり」という) ・買い物―食料品…魚・肉は相知町の農協などまで車で買いに行く。 行商が売りに来ることもある。 野菜は自給自足。 衣料品…唐津・多久市の方まで車で行く。(大型スーパーができている) ・氏子―氏子とは、その部落のお宮のこと。 尾部田は熊野神社の分家らしい。 ・伝説―草住神社 諸説あるようだが、昔、合戦場で戦った武将が打死する時遺体を埋めるように遺言を残して死んだ。その埋めた場所が草住神社であり、その武将の首から上がまつってあるため、どもりやおしが治るという言い伝えがある。
<一日の調査を通して・感想> 前日の台風が嘘のような見事な晴天に恵まれ、とても暑く大変な調査となった。しかし、今後あまりできないような素晴らしく貴重な経験ができたと思う。 たまたま6月29日は、尾部田地区の老人会のような人たちで旅行に行かれていたので、昔のことについて知っている人たちが少なかった。訪ねても留守だったり引っ越して来られたばかりの人だったり、山の一番奥の家まで坂を上ったり蚊に刺されたりと、色々ハプニングはあったが、声をかける人々みんなとても親切で、調査は予想以上にスムーズに進んだ。始めのうちはマニュアルに書いてあることだけを事務的に尋ねていたが、調査を進めるうち、どんどん色んなことが知りたくなって「今度はあれも聞こう、これも聞こう」「これはどうしてるのかな?」と質問が増えていくのが分かった。主に話を伺ったのは先に記したお二人だが、他にも道端や庭先などで様々なちょこちょこした情報を得ることができた。 本当に疲れたけど、充実感のある調査だった。 |