【東松浦郡相知町伊岐佐長野】
佐賀現地調査レポート 1LA97223福崎正浩、1LA97189永江孝幸
T.一日の行動記録 10時20分にバスを降りて、まず農協長野支部へ向かう。農協前で70代のおじさんに尋ねるが、お急ぎのようだったので詳しくは教えてくれない。井手商店の井手チトセさん(大正14年生)は川や井手について教えてくれたが、山については全くわからないという。残念ながら、おじいさんは留守であった。当日はあじさいまつりが行われていて、留守の家が多かった。 見帰りの滝で、野菜などを売っている人は知っているかもしれないという情報を得て、観光も兼ねて、見帰りの滝行きのシャトルバスに乗る(11時10分)。 滝見物を終えて、情報収集をしていると、皆が口をそろえて、「井手重夫さんがよう知っとんなさる」と。どうも有名人らしい。 早速、井手重夫さん宅へ歩いて向かう(12時30分)。残念ながら、重夫さんは留守で、おばあさんと息子さん(40代)が出てきた。持山周辺のしこ名を教えてくれた(イリュー、サクラダ、イシクラなど)。重夫さん宅周辺をイシクラ(石蔵)というのは、昔、石がごろごろしていたからだそうで、お庭の大きな石もその石だとのこと。 それから、近所の家を訪ね歩いていると、親切なおばさんが町会議員の能隅光夫氏に電話をかけてくれた。幸いご在宅だったので、早速向かう(1時30分)。部屋の中まで案内されて、1時間程いろいろと教えてくれた。能隅氏は、昭和57年〜平成2年の圃場整備事業の担当役だったそうで、書面や図版を示しながら詳しく語ってくれた。 長野は、昔は小高い丘で、区画の細かい段々畑が少しあった程度で、しこ名はあったかどうかわからないが、呼び名があったとすれば、一帯をまとめて「ナガノ」と呼び合っていたらしい。今回の整備で4〜5m程切り下げて水田にしたそうである。能隅氏のおかげで何とか調査らしい調査ができた。
U.しこ名一覧
V.伊岐佐の圃場整備事業について 〜伊岐佐町会議員 能隅光夫氏(昭和6年8月生)の発言より〜
●第二次圃場整備事業について(能隅氏が担当役をなされた) @時期:昭和57年〜平成2年 A目的:機械化農業に適合した大型水田への造り替え。 Bそれまでの農業(水田や畑) ・農業のみで生活をしていくのにはとても苦しい。 ・機械化しようとしたが、田が平らでない上に、狭く、採算がとれない。 ・田(畑)の質は均一でなく、良田と悪田の差がはげしかった。 (長野は悪田(畑)であった。段々畑で区画が細かい)
↓ 生活が苦しいにもかかわらず農業を続けなければいけない(義務的、宿命的) ↓ 圃場整備事業に対する村人の意見の一致 (特に長野においては、畑の状況が最悪だったので、整備に対する反対者はほとんどいなかった) C財源 機械化農業では、大きな土地が必要であり、そのために国はある一定の広さがなければ補助金を出さなかった ↓ 圃場整備に対する地元の意志の高揚 ↓
地元の要請を受けた農林省の国会議員や地元議会・地元住民の要請により、補助金の規制が緩和される ↓ 長野・松原・黒石原などの伊岐佐(地区)の田畑を集め、一斉に圃場整備事業へ
∴総事業費 約10億円 D地元住民の負担 ・2億5000万円 → 平成3年度に完済 ・機械化農業に伴う農業機械の購入費 E圃場整備の進め方 伊岐佐地区を3つのブロックに分け、1ブロックずつ水田を作らない時期(冬〜春)にかけて圃場整備を行った。そのため、農業にはそれほど障害をきたすことなく圃場整備事業は終わった。 F圃場整備事業後の水田 ・最も大きいところでは、4〜5mほど切り下げられている。 ・機械化農業の導入により、農業労働時間の短縮 → 兼業農家の増加 ・しかし、圃場整備事業によって、自分の農地が狭くなったと不平を言う人もいる。 能隅光夫氏によれば 「今回の圃場整備事業は上からの政策ではなく、農民の意志の合意のもとに行われた点は強調できる。伊岐佐は佐賀県の中でも、最も圃場整備が成功した地区だと言えるだろう」
W.伊岐佐の水利と水利慣行について 〜井手商店・井手チトセさん(大正14年生)の発言より〜 伊岐佐川には、井手(井堰[イセキ])がほぼ等間隔に存在し、そこから水田へ水を送っている。井手には、大井手(オオイデ)や車井手(クルマイデ)、桃谷井手(モモタニイデ)、持山井手(モチヤマイデ)、チューブ井手などがある。チューブ井手については、昔、チューベエさんがいたからだとか。 また、長野付近の田は高いので(圃場整備前、悪田(畑)であった原因であろう)、山のほうにある宮田池(沼)からも水を引いている。 そして、長野の水田にはそれぞれ1m〜2mの高低差があり、この差に応じて用水路がつくられている。
※「水番さん」の存在 昔から交代制であった。現在では通常、自治会長さんが順番になるらしい。 水不足の時は、高いところにある水田から順番に水を入れていく。この際、「水番さん」は各村々に平等に水を分け与えることを条件として、「水番さん」の権限は絶対である。 1994年(平成6年)の大旱魃の際も、「水番さん」が水をまかなったそうである。
X.村の生活に必要な土地 長野は山に近い村であるが、入会地はなかった。山はすべて私有地である。ガスが普及する以前、村の人たちが御飯を炊いたり、風呂を焚く燃料、あるいは田に入れる肥料(クサというらしい)は、山に落ちている木や草(木を折るのはいけない)は自由に持っていってよかったので、それを使用していた。 (今回の調査では、残念ながら山について詳しく知る人にめぐり会えなかったので、山についてはここまでしかわかりません)
Y.村の耕地 圃場整備以前には、村の水田には湿田や乾田が入り混じっており、村で特に米がよくとれるところ、逆にあまりとれない水田があった。 (長野は米がとれず、ほとんど畑だった)
Z.村の現状とこれから(伊岐佐) ・現在の様子 68軒の家で農業をしている。そのうち兼業農家66軒、専業農家2軒。 専業農家は 定年後、百姓をする人(定年百姓というらしい) 若者(50歳以下)は2〜3人しかしない しかし、先祖代々からの財産として、平日は会社で働き、土日に農業に従事している若者も多数いるために、後継者不足はそれほど深刻ではない。けれども、農業で生計を立てている人はとても生活は苦しい(確定申告で所得税を払っている人は1〜2人らしい)。 ◎作物 ・稲…ヒノヒカリ 8割 コシヒカリ 2割 寿司屋などの業者の専属注文による ・たまねぎ ・高菜 ・大豆 など みかん:自由化と消費量の減少 土地が酸性のため、糖分が少なく、甘くない →現在では作られていない。
[.感想 全く知らない土地に行って調査をするというので不安であったが、いろいろな人に出会って話をするうちに、充実した感じを抱いた。やはり相知町の人はとても親切であった。町で採れた野菜を販売している所では、先日“フェスティバル”らしきものをやっており、イチゴ狩りやイノシシ鍋など、かなりミステリアスなものを催していたらしい。ぜひ行ってみたかった。 |