【東松浦郡相知町長部田(ながへた)】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LA97212 原野由美子 1LA97229 福山亜希子 調査日 6月29日(日) 話者:吉松一さま 昭和8年生まれ
<しこ名一覧>
村の水利 ・使用している用水の名前……長部田井手 ・用水源……厳木川、長部田井堰(厳木町船谷<フナキダニ>) ・共有している他の村……なし。長部田のみ。 ・水争い……無し。 ・水不足 厳木ダムができてからはひどい干ばつでも水が涸れることがなくなり、水不足の心配はなくなった。 94年の大干ばつの時も、特別水対策は行わなかった。ただし、厳木ダムができる前の昭和42年頃に水不足があったとき、その年1年間だけ。 上組から順々に水が足りる分ずつ村共同で田植えを行った。 ・その他 ・水路の管理などを12月のつきかた計算によって徴収する。 地<田>×4、戸×6の割合。 長部田井手の外に、長部田の堤からも水を引いている。
◎村の耕地 ・長部田では昔から米だけを作っており、麦などの裏作は行っていない。 ・200年ほど前から現在まで7カ所で坪狩りが行われており、その町切り台帳が残っている。 ・町切台帳の1番古いものには寛政5年と印してあった。 ・米がよく取れる田……三十六、下の原。 米のよくとれない田……口ノツボ 地図参照、(地図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵) ・米がよくとれるのは川のそばの水によく浸かる地域の田んぼ。 ・米があまりとれないのは鉄道よりも内側(山側)と川沿いの砂が多い地域の田。 ・化学肥料が入る前……反収7俵(6票と少し) 現在、1坪で一升ぐらいの差がある。 ・米の品種 化学肥料入る前……農林18号。 現在……ヒノヒカリ。 ・化学肥料を使用する前(金肥を使用する前)には、川土手に生えていた青草や、炭坑の下肥え、その他に石灰や窒素などを使っていた。 ・昔からの入会山はなく、山は個人のものだった。しかし、炭鉱閉山後もらった山が今は長部田共有の山になっている。
◎村の道 ・道は昔とはあまり変わっていはいない。 ・ほとんどの古道は墓地へと続いているが、墓地は点在しており、それぞれの位置がわからない。また現在ではその後もなくなり、道が必要なくなった場合には墓地へ行く道は山道が多いので、その道に杉などの木を植え、道をなくしてしまうことがある。そのため、古道が分からなくなっている。 ・古道は山道が多く、森林や焚き物、薪を取りに行くのに疲れたり、馬や牛に食べさせる草を取りに行くのに使われた。また、炭坑へ行く道は肥料に使うための下肥えを炭坑に取りに行ったり、炭坑に野菜を売りにために使われた。 その他、厳木川を船で石炭を運んでいた。
◎祭祀 ・長部田神社には金比羅様が祀ってある。 ・正月などは権現谷神社に参った後長部田神社に参拝した。 ・正月16日に長部田全体で金比羅神社で氏神様の春祭りが行われる。 ・権現谷組で8月に祭りがある。 ・秋の米の出来る頃に、収穫を祝う祭りが下谷組と尾越組で火の神様を煉瓦山組と尾越組の一部で弁天様を祀って行われる。 ・秋10月の初めに町切りをするときに報告をするため生産組合で大日如来をお祭りする。 ・長部田には氏子が3名いる。
◎その他、村のこと ・明治22年に鷹取村の一部(下の原)と長部田村が合併した。その時に鷹取神社と長部田神社も合併し、長部田神社となった。また、鷹取村は相知村とも合併した。 ・和田山部落に相知炭坑があった。 ・土場は鷹取の石炭を積むところであり、ここから唐津まで厳木川を船で石炭を運んでいた。 ・火薬庫という呼び名は、炭坑の火薬を置いてあったことからこう呼ばれるようになった。 今や炭坑のボタを捨てていたことから、ボタ山と呼ばれるようになった。 ・ボタ山に火が入り、そのために湯が出てきた。そこに昭和初期から昭和45年頃まで共同風呂が設けられていた。しかし湯は濁っており、あまりきれいな温泉ではなかった。 ・鷹取にも温泉があった。 ・尾越の屋号を持つ江頭さんは、昔この辺の地主であった。また江頭記念碑は、江頭さんの一族がお祭りしているものだそうだ。
◎村のこれから 昔、長部田は48戸の生産組合の農家があったが、現在では9戸にまで極端に減ってしまい、兼業農家が多くなった。その背景には、長部田は米だけしか作っておらず、それだけで食べていくということが難しくなったということがある。 また、生産組合が48戸だった頃には30町近く作っていたが、兼業農家が増えたために、田頭などの専業農家の多い地域から長部田の田を耕しにやってくるようになった。このように自分で米を作らずに他人に田を貸すことが増えてくるだろう。また、このような状態が進むと農家自体の数も減っていくだろう。 |