【東松浦郡相知町牟田部】 歴史と異文化理解A 牟田部地区現地調査レポート
1LA97141 杉山 寿一 1LA97151 立川 良太
話者:草場 志津江さん(大正4年生、82歳) 草場 スマ子さん(大正4年生、83歳)
1.<調査した人> 草場志津江さん 大正4年生まれ 82歳 東京から牟田部に嫁いで来られた方。上古川(イカリノ)在住。
志津江さんは、訪ねた当初は少しけげんそうな顔をしていらっしゃったけれども、九州大学の学生であることを名乗り、調査の内容や目的をお話しすると快く協力して下さった。彼女のお話では、志津江さんの息子さんがかつて福岡の大学で学んでいたことがあり、懐かしく感じたそうだった。彼女は昔から牟田部に住んでいたわけではなく、東京から嫁いで来た方で、あまり農作業はやっていないとおっしゃって、古くからこの土地に住んで農業に従事している草場スマ子さんという古老の方を紹介していただいた。その上でご存知の事を伺った。 まず、この地域の地名が小字地図に書かれている“上古川”ではなくて、“イカリノ”であることが分かった。彼女のお話によると“イカリノ”の地名の由来は、昔、松浦川を上ってきたという交易船が、この辺りの岸で碇を降ろしていたということから来たものであるそうだ。しかし以前に調べてあった小字一覧には、“イカリノ”という地名は“猪狩野”と書かれており、それを目にした志津江さんは、「こんな字を書くの?」と不思議そうな顔をされていた。この辺りの人々は、地名を文字ではなく音で捉えて覚えてきたように思われた。 “ナガハタ”というしこ名については、どの場所のことか特定できなかった。 牟田部地区と久保地区の境界についてもお話を伺うことができた。“ススイノ”地区には4軒の家が並んで建っているところがあり、このうちの2軒が久保の寄合に、2軒が牟田部の寄合に参加しているそうである。後に、実際にここを訪ねてみると一塊の集落のようになっていて、どうやら家と家との間の谷が久保―牟田部の境界になっているようであった。
2.<調査した人> 草場スマ子さん 大正4年生まれ 83歳 隣村の大野出身。牟田部には昭和10年に嫁いで来られた。 上古川在住。
溜め池(立川の想定も含む)
草場志津江さんの紹介を受けて、草場スマ子さんのお宅を訪ねた。スマ子さんは昔から牟田部に住んでいらっしゃると志津江さんから伺っていたのだが、彼女自身のお話では、彼女も元からの牟田部の人ではなく、昭和10年に松浦川の向こうの大野という所から牟田部へと嫁いで来た方だそうだ。元々は“イカリノ”の方に住んでいて農業をなさっていたが、現在は引退して上古川の新しい家に住んでおられる。 スマ子さんには、主に昔からの田畑の呼び方についてお話を伺った。さすがに昔から農業をしていた人らしく、色々な地名について伺うことができた。しかし山の上の方の土地についてはあまりご存知ではなかったので、境界についてのお話は伺えなかった。 お話をお聞きする中で、昔から伝わっている音での地名の呼び方について、いくつかの発見があった。まず、小字一覧の中で“ロクローヤ”と表記されている六郎屋地区は、スマ子さんたちの間では“ロクイヤ”と呼ばれていたことが分かった。彼女は「六郎屋」という漢字地名を違う呼び方として“ロクイヤ”と呼ぶのではないかとおっしゃっていた。しかし僕達には六郎屋と表される前には“ロクイヤ”に相当する別の字と意味があったように感じられた。また、小字一覧の中で“キザイク”と読み方が振ってあった木細工地域も、彼女達の間では“キジャーク”と呼ばれているそうである。 また、“ヒランタニ”と呼ばれている田畑は、実際は小字の地図よりもかなり小さな三角形の土地であることが判明した。自宅から遠い地域の田畑の境界については曖昧にしか話を伺えなかったが、近くの上古川地区などの区分けなどは、かなり詳しく伺うことができた。“アサイダニ”と“イカリノ”、“カンブルカワ”と“フルカワ”を分けているのは、浅井谷溜から出ている水路であり、上古川地区は現在の国道203号線から“イカリノ”と“カンブルカワ”に分かれているとのことであった。 “サンダンマ”と呼ばれる地域は、“フルカワ”と“ロクイヤ”と“シタンダ”の間の、現在店が林立している小さな地域を指すという話も伺った。
<一日の行動記録> 牟田部に到着して、まず、かつて牟田部にあった小学校分校のプール跡の近くで、通りがかりのおばあさんにお話を伺った。お話によると、この地域は上・中・下牟田部と坊中に分かれており、松浦川沿いに上流に向かって下・中・上牟田部が位置し、現在いる本牟田部駅周辺は中牟田部であって、東の山を越えた地域が坊中(ボウヂュウ)になるそうである。下牟田部の地域は千早君達のグループが調べることになっており、僕達のグループの範囲は上・中牟田部地区に当たるようだ。 さらにお話を伺うと、地図中の平野谷の中にある田畑を“ヒランタニ(平ノ谷)”と呼んでいることを教えていただいた。平野谷というのは、小字の地図にあった範囲よりかなり狭い範囲らしいことが分かった。また、溜池についてはおばあさんは特定の呼び方をしていないようで、ただ「向こうの溜池」と呼んでいるそうである。加えて牟田部の地域では六つの溜池が使われているということであった。おばあさんに名前をお聞きすることはできなかったが、「生産組合長の松岡さんのところにそういったものの一覧がある」ということを教えていただいた。しかし、調査の一週間前に松岡さんに手紙を出したところ、「都合が悪いので失礼します」という返事を頂いていたので、家を訪ねるのは失礼にあたると思い訪ねなかった。 その後、“ヒランタニ(平ノ谷)”辺りの用水に使われている(と思われる)溜池を見に行った。溜池(六郎屋第一溜、六郎屋第二溜)はかなり大きいものであったので、水不足はあまり関係がないのではないかと思われた。溜池から水路をたどりながら歩いて行くと、かなりの広範囲の農業用水の水源であるようである。ここで一つの疑問が生じた。牟田部体育館を挟んで六郎屋第一溜の反対側にある溜池のようなものは、一体何に使われているのかということである。見たところその池からは水路は出ていないようだし、「ここで遊ばないように」という意の看板が存在するだけで、農業用水であるのか防火用水であるのか、溜池の意図が分からなかった。(結局この溜池については最後まで分からずじまいだった。) さらに山道を登って木細工地域の上にある溜池を見に行った。この地域は谷に沿って棚田が展開しており、水路とともに棚田の中を伝って下りてくる水路もあるようである。この水路はほとんどがコンクリートのものであった。思っていたよりも山奥にこの溜池はあった。最近手入れが入ったような形跡がなくかなり荒れた山になっていたが、この溜池は六郎屋第一溜よりは小さいものの多くの水を湛えた溜池であった。 そうこうしているうちに(聞き取りは進んでいない)昼食時になってしまったので、牟田部地区公民館の隣にある牟田部体育館の入口付近で昼食を摂った。やはりアポイントメントを取っていないのは苦しい。玄関や窓が全開になっていても留守にしている家が多いのには驚いた。よほど治安が良いのだろう。余談であるが牟田部には公民館が2つあり、1つはかなり古い建物、もう1つは丘の上にあり廃校となった小学校の分校校舎を改装したものである。 ここでハプニングが起こった。班長の杉山がどこかで財布を落としたらしいことに気付いたのである。六郎屋の溜池か木細工の溜池を見に行く際に落としたようだった。彼は前にも福岡市で財布を落としたが、結局出て来なかったという。溜池の辺りや山道を探したが見つからなかったので、来る時に立ち寄った本牟田部駅前のコンビニに行ってみたところ、誰かがその財布を届けてくれていたそうだ。牟田部の人々はいい人が多いと感じさせられた。 午後1時となり、そろそろ訪ねてみても良いのではないかと思い、牟田部地区公民館を後にした。ところが、田畑を見回しても誰も農作業をしていない。午前中にはあちこちに農作業をしている人がいたので、農家の人々はまだ昼食を摂っている時間なのではないかと思い、上牟田部地区の浅井谷溜を見に行った。浅井谷溜は牟田部で最も大きな溜池で、浅井谷、古川、上古川地区の田畑の水源となっているようである。実際に訪ねてみると、現在林道の工事中であったがかなり大きな溜池で、豊富な水量があり、水不足の不安はあまりないように思われた。 1時半を回り、もう村の人々の昼食も終わって訪ねても失礼ではないように思われたので、調査に移った。またしても留守の家が多い。が、上牟田部地区で運良く古老の方がいらっしゃる家があり、お話を伺うことができた。
<感想・反省> 牟田部は、事前に調べた資料によると「沼地」という意があるそうだが、それについてのお話を伺えなかったのが残念である。事前の段階で調査する内容について、きちんとした認識ができていなかったことが調査の不徹底につながった面があることも否めない。大いに反省点としたい。 多くの人にお話を伺えなかったことも反省点である。このことの原因は、調査の取り掛かりの踏ん切りが中々付かなかったことと、調査した方から聞いた“ウドノイワヤ”という、少し離れた山中のほこらを訪ねたところ、そこは牟田部とは関係がなく、時間を浪費してしまったことである。 それでも、今回の調査で触れることができた牟田部の人たちの温かい対応が、強く印象に残っている。ここの人々のおおらかさや、住んでいる全ての人々の名前を知っているといった、地域内での関わりの深さに考えさせられることが多かった。 もう一つ今回の調査で印象に残ったことは、昔から伝わる音での伝承の重要性であった。人々の日常に根付いた音の世界が昔からの地域の名残を伝えている。現在の地名とは異なる地名が飛び出してくるのは新鮮な体験だった。(実際、杉山は田舎に戻って自分の家の田について祖母に尋ねたところ、“ムシロウチ”という聞いたことのない地名を聞き出し、更にその気持ちを強めた。) 今回の調査で、実際に地域の人々に触れるという歴史調査の重要性について少し認識できたような気がしている。 |