【東松浦郡相知町椴の木(もみのき)】 佐賀現地調査レポート 1LA97010 安部文晃 調査日 6月29日(日) 話者:藤田繁治さま 昭和30年生まれ 藤田フミコさま 73歳
<しこ名一覧>
<村の水利用−田と溜池>
・ウラノタニ(浦の谷)……理由は不明。昔から「浦の谷」だけ伝えられている。 ・イノクチ……漢字すら不明、少し椴の木から外れるところにあると思う。 ・コウラ……はるか昔、いつの話かわからないとおっしゃっていたが、厳木川に水車を作り、その水車を利用して近くの田に水を供給していたらしく、その水車というのが亀の甲羅に大変よく似ていてということから、「コウラ」と呼んでいるらしく、漢字を尋ねるとやはりそのまま「亀の甲羅と書くのだろう」ということだった。しかし、この呼び名は、浦の谷やイノグチとは異なり、現在ではほとんど使われていないことだった。 ・キンホリダニ(金掘谷)……この呼び名の由来は、漢字をそのままということとおっしゃっていた。しかし、本当はニッケルか何か定かではないが、そんな物を採取していて、金ではないらしい。戦後の話のことである。
<村の範囲> 地図の紫の線で囲っている範囲を差されたのだが、よくわからない。もうすこし大きい可能性があるとおっしゃった。
<村の古道> だいたい、昔使われていた古道をもとにして、現在の自動車の通ることのできる道路を作ったということである。その顕著な例が楠方面に行く道は、ほとんどがそのまま使われているというのである。 その他には、浦の谷までは楠方面と同じ道で、途中から分かれて後述の御田様の方へ向かう古道があるということだった。もう一つは金掘谷の方へ向かい、岩詰(イワヅメ)と言うところに向かう古道があり、そちらは二通り行く道がある。 1つは椴の木と隣接す鶴との境界線を通る方法と、もう1つは地図の空白部分を通る方法がある。後者のほうは、かなりアバウトになってしまった。
<村の耕作> 椴の木は範囲が狭いので昔からかなりの努力がなされたということであった。浦の谷の上にある黒の斜線部は、その昔、戦後間もない頃、開墾をしてなんとか切り開いた土地で、立派とは言えないがだんだん形になっているということだった。 初めは全て手作業でないと機会が使えないほどの山林だということで、大変苦労をなさったということだった。土地も痩せていて、肥やすために今後は比べものにならないほど苦労してきたらしい。泊まりがけで山奥に入っていって落葉や草木を拾ってきては土地を少しでも肥やすために尽力なさったらしい。 今も昔も米以外の作物は作っていないということであった。
<村の水利> 1994年の雨が降らなかった時期にも水には困らないくらい椴の木は水がゆたかであるということだった。ほとんど前にある厳木川に依存しているものの、あちこちの谷から湧き出ていて、さすがに川が涸れることはなかったらしい。川から少し特別に汲んで水を撒いたくらいはしたが、特別農業に支障をきたす程水に困ることはなかったということだった。昔もおそらくそうだったのだろうということだった。
<村の祭祀> 椴の木には氏神様を祀っている天満宮の他にも、御田様(オデンサマ)と三尺坊権現様というものがあって、三尺坊権現様は石碑しか残ってはいないが、御田様は今もあるらしい。主に昔はそれぞれ別々に祭りを行っていたらしいのだけれども、今は4月15日前後にまとめておお祭りをすることになっているらしい。 御田様は水にまつわること、つまり米作に関する願い事するときに参拝するということであるが、他の部落ではまだ行っているらしい。現在椴の木では水乞いと言って特別にすることはないらしい。しかし昔は、藤田繁治さんのお母さんである方が言われるには、幼い頃は、おでん様よりさらに奥に入っていったところにある作礼山という山まで歩いて出かけて水乞いを行っていたということであった。 三尺坊権現様というのは昔、落人がこの椴の木にやってきて立てたということらしく、それ以来、椴の木の男の子が育たない人たちがここでお参りすると男の子が生まれたという逸話が残っている。それが今に受け継がれてきているということらしい。 その他には6、7月頃の田植えが終わった時期に、サナボリという名の祭りみたいなお祝い事みたいな寄り合いが行われているらしく、藤田さんの奥さんの言うことには、川を上ってくる魚の名前ということだった。僕の考えは「魚が上ってくる」が略され、さなぼりになったのではないかということである。失礼だが、そのことを藤田さんに言うと、藤田さんも奥さんの意見よりも僕の意見に賛成してくれた。しかし辞書で調べると「サナブリ(早苗饗)」とあって田植え完了のお祝いという意味の語があったのでそこからきているかもしれないと思った。 最後に12月16時頃「オヒマチ」という名の祭りがあって、 1年の収穫を祝い、太陽に感謝するという趣旨のものらしい。現在はそれほど大規模に行われている訳では無いそうである。 後になったが、 4月の末には天満宮で神主さんを外から呼んできて行うそうです。
<これからの村> 藤田さんがいわれには、ここ数年で村の古老にあたる方が次々に亡くなられ、しかも2軒が空き家になり、現在は8軒しかなく、その後、藤田茂さん宅を含む3軒が兼業ながらも農業営んでいるのだった。やはり、これからこの村では農業は廃れていくといいようなことをおっしゃっていた。 専業で米を作っている方は、他の部落でも数えるほどしかいなくて、藤田さんら兼業の方々にトラクターやコンバインで米作りを少ししてもらっているということだった。こんな状況下で、空き家になった2軒はやはり若い人たちであったということで、どんどん椴の木も過疎化が進んでいるということだ。しかも、当の藤田さんも若いとき東京にいらっしゃったらしく、自分の子供たちにも他のところで頑張ってもらいたいみたいなことをおっしゃっていた。 よく聞く高齢化野村の状況がばっちり当てはまるような感じがした。米作だけでは天候に左右されるし、収入を求めるなら、イチゴや花などを作る方が良いと言っていたが、その分手間がかかるので難しいだろうと言われていいた。昔は米もその漢字のごとく手間が八十八かかるといわれていたが、今は化学肥料などのおかげで30位の手間しかかからないと言われていた(笑)。寂しいことにもうこの村は来なくなっていくという言葉を明るく言われた。その時とても心が痛くなった。
<その他> この椴の木という部落は藤田という姓がほとんどであり、それぞれ親戚ではないということだった。しかし、昔は同じ一族だったあのだろうということであった。次に出てこられる藤田さんも同じ藤田であるが、一応親戚ではないということです。
藤田フミコさん73歳 しこ名については同じ程度教えていただきました。 <村の耕作> 昔から住んでいて現在椴の木で最も年長である藤田フミコさんがおっしゃるには、この椴の木は昔から田んぼに恵まれないと言うか、土地が狭く痩せているので今でも兼業の方しかいないと言うように、昔も大工さんや木彫りを一緒に仕事してもらっている人たちがほとんどだったということだった。なかには川を挟んで対岸の厳木の土地を借りて工作をしている人たちもいたのだそうだ。 その他、椴の木の名前は大字にもなっている楠が生い茂っている中に、氏神様を纏ってある天満宮に、今は枯れてしまったらしいが、大きな椴の木があったことに由来しているらしいが、しこ名の由来についてはほとんどご存じではなかった。
最後に一言、きちんと他の家も尋ねさせてもらったのですが、いらっしゃらない方が多く、他にも取材拒否されたりと全く聞くことができず、手も足も出ない状態だったです。取材拒否した人に対して自分たちの尋ね方が悪かったたのだと反省した。でも優しい方々と触れ合うことができて、しかも生で貴重な話を聞かせてもらって、大変有意義な調査だった。 ただ椴の木がなくなってしまうかもしれないと思うと、とても悲しくなってしまう。そんな事はぜひ避けてほしいと思う。 |