【東松浦郡相知町松原、黒石原周辺】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97191 長野慶助

1LA97195西村和海

調査日 629()

話者:能隅光夫さま:黒石原在住、昭和6年生まれ。65歳。

   井手敏則さま:昭和7年生まれ。

 

<しこ名一覧>  

村の名前(小字名)

しこ名

松原

・シシクサレ(シークサレ)

黒石原

・フツキシャ

・ガブロ(カブラ)

・クツノハナ

・ミョウジンヤマ(山の名、山というより丘)

・アカハゲ

萩平

・ターバル(寺原)

長野

・ザヤ(茶屋)

・ナガタニ

五反田

・イシグラ

田畑

小字松原のうちに

・マエダ

小字黒石原のうちに

・ヒロタ(広田)

小字萩平のうちに

・テンジンサマ

・テンジンヤマ

・ゴロコバ(ゴローコバ)

小字五反田のうちに

・モチヤマ

 

(1)調査について

 調査当日は相知町で「あじさい祭」といわれる祭りがあっており、松原・黒石原には余り人が残っていなかった。出会った人から古老であるという萩平(黒石原、松原の隣り)に住む仁部忠さんのことを聞き、そちらへ向かったが留守とのことであり、詳しい話のできる人が少なかった。運よく、黒石原地区で相知町の町会議員である能隅光夫さんに話を聞くことができた。事前の連絡はできなかったが、快く応じてくださった。

 

(2)用水について(松原、黒石原のみ)

 下にも記述するが、松原・黒石原での用水は全て伊岐佐川が水源となっており、それもあってか、それぞれの水路により特別に異なる約束事はなかったそうだ。

村の名前

使用している用水の名前

用水源

共有している他の村

松原

・オオイデ

・クリマイデ

伊岐佐川

 上流域

 ↓

 下流域

・特定できず

黒石原

・モモタニイデ

・モモヤマイデ

・長野

 

昔の配水の慣行・約束事

昔の水争いの有無

・水利権は上流から順番にある。但し全部取ってはいけない。

・各イデ(井手)を起点にそこから上流、下流というようにわけて配分することがある。

・能隈さんが生まれてからはそういった争いは見られなかったようだ。集落間の話し合いで配分を決めていたため、争いはなかったらしい。しかし、能隈さんによると、それ以前にはおそらくあっただろうということ。それ以上のことはわからなかった。

 

・用水についての詳細

 この地区では3年〜4年に一回渇水が起こっており、そのような時には主に各部落の区長さんが「水番さん」といわれる係になり、上記の水路(イデ)を起点とし、そこから上流と下流でわけて担当し、水の配分(「水をまわす」という)、時間給水を行っていたそうだ。

 1994年の大旱魃の際も上記のやり方で切り抜けたと言われていたので、伊岐佐川からの水だけで旱魃を乗り越えられたようだ。少なくとも昭和に入ってからの水争いはないということがわかった。

 

・村の道について

 「〜ノウテ」と呼ばれる道は、昔大規模な道路整備があったため残っていないし、またあまりそのような呼び名はなかったとのこと。

 

・祭祀について

 松原地区調査中に地蔵菩薩が2体、道沿いに安置されているのを見つけた。能隈さんにこのことを尋ねると、この地蔵はちょうど「お遍路さん」のように巡って祈りにくる人がおり、その巡ってくる人は一年の内、春と秋にここを訪れる。この時、松原地区の家からおよそ一人ずつ人手を出して、料理などを作り「お接待」という形で彼等をもてなす、といったような形の祭りらしいものが残っていると教えて下さった。

 また、黒石原地区の現在、伊岐佐地区農村公園がある所の山には「オンダサマ」と呼ばれ祀られている祠がある。ここでは特別に祭りというものはないが、地区の係となっている人が供物などをしているそうだ。

 同様に黒石原には「オダイサマ」と呼ばれる祠がある。周囲は藤の木の棚がある。こちらは、「弘法大師」が祀られていると聞かされていたそうで、年に一回、黒石原の家から一人ずつ出てきて、上記のお地蔵様のときのように「お接待」をしているそうだ。また、しこ名の中に「テンジンサマ」「ミョウジンヤマ」というのがあるが、黒石原と萩平の境目の山()には赤鳥居が小さな道にそって二つほどあり、登っていくと小さな祠のようなものがあった。鳥居には「正一位稲荷大明神」と記してあり、「テンジンサマ」「ミョウジンヤマ」といったしこ名、地名はこれに由来しているらしい。(「テンジンサマ」でとれた米はこの祠の供物にも使われていたとのこと。)

 

・この他に話を聞いてわかったこと。

 黒石原のしこ名に「クツノハナ」というものがある。伊岐佐川の川岸のしこ名だが、昔、伊岐佐川の中に「クツイシ」と呼ばれる靴の形をした大きな石があり、この石を地区の目印の一つとしており、この「クツイシ」から「クツノハナ」というしこ名ができたそうだ。現在は、この「クツイシ」は伊岐佐川の整備事業に撤去され、残っていないそうである。

 

・村のこれから

 能隈さんの話によると、「昔はこの地区は(伊岐佐上区)専業農家が68戸もあったものだが、今はもう専業農家は23戸となり、多くは兼業農家になってしまっている。この地区の30町歩の耕地を皆でわけあってやってきている。一戸あたりの田の広さは昔と変わらず56反だが、兼業が増えているのは機械が入ったことやそれだけでは生活が厳しいからだろう。」といったことを聞かせていただいた。この後、能隅さんに古老の方を教えてもらったが留守のため、再び人探しとなった。

 

 井手さんにしこ名等のことを聞いたが能隅さんに聞いたことと変わりないものだった。そこで、このあたりは井手姓が多いため屋号の有無を尋ねたが、お互いを呼ぶ時は昔から下の名前をよく使い、屋号のようなものはないとのことだった。そのかわり井手姓の由来を聞くことができた。

 井手姓は元々、佐賀県伊万里市南畑町から昔やってきたのであり、毎年420日頃に「先祖祭り」といって井手姓の家が集って先祖を祀るということ。また、井手家は相知町で町切という役目を担っていたそうだ。そこで先祖のお墓のことを尋ねると宮田池近くにある納骨堂を教えて下さった。その納骨堂に行ってみると井手家の納骨堂一つと墓碑六つ(墓碑銘は全て井手家代々〜となっていた)、能隅家の納骨堂一つがあった。

 井手さんの話では、この辺もいわゆる整備工事や圃場整備で地形が変わり、また世代交代などで昔のことを知る人が少なく、ノウテ()やしこ名を知っている人が本当に少なくなっているということだった。仕事をされながら我々の質問に答えていただいていたこともあり、これ以上の詳しい話を聞くことはできなかった。しかし、日本の農業の展望については決して明るいと言えないといったようなことを言っておられた。

 

・屋号について

 屋号については地図にある所(タカイシガケ、モモタニ)以外には調査できなかった。人々の話によると昔から屋号よりも下の名を使っていたようで、「屋号なんてあったかなぁ。」とおっしゃる老人もいた。屋号についても能隈さんに教えていただいたが能隈姓でも屋号がある家はあるが、めったに使っていないそうである。また、調査していく中で、話を聞いてみるとこの地域では専業農家は減少しているが、そんな中で若い人々が、農業に戻ってきている、という面もあることがわかった。彼等は週休2日位で、耕地の広さも23段程度の農業を行っているそうである。言われてみると、調査で歩き回っている時によく若い人を見かけた。しかし、それでも田舎の農家が減少していることにかわりはないそうだ。

 

 今回の調査は、日曜と祭りが重なり、古老の方があまり家におられなかったことは残念だったが、能隈さん井手さん方等に大変親切に教えていただけたのでよかった。古老の方が減り、また記憶もあいまいになっていく中で、このような形で昔の日本の風景や文化を残していけることが嬉しく思えた。大学の中にいるだけではわからない、実際に目で見て耳で聞くことでしかわからない事の存在にも気付かされた。今度このような機会があったら、もっとうまくできるだろうと思う。この経験はおそらく何らかの形で生きていくだろう。



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