【東松浦郡相知町楠】
歴史と異文化理解A 1LA97269山口敦子
シコナ集
水利と水利慣行 調査を行った楠地区は、山間部にある地区であり、山の頂にも程近い所であった。そのため、もっと上の地区に集落があるわけではない。 田にはる水は、山からの川、“楠川”から引いてあるそうだ。この川は、他の地区と共有している訳ではないそうだ。用水網の工夫については、“長い時間ばかけて出来上がった”とおっしゃった。結局、くわしいことは分からなかったが、しこ名のところにも書いた、“ナカンマノイセキ”といった、石づみを多く利用して、田んぼの中に水をはっているようである。また、楠川に流れる水はとてもきれいであった。飲み水にもできるのではないかと思われる程の水の澄みかたであった。
村の古道 地区の中にある道は、地区の中央を通る割と大きな道と、山の中へと入っていく細い道がある。この細い道は、平成に入ってから舗装されたというくらいの細い道で、昔は山の中からとってきた草や産物を運んでいたそうである。
村の範囲・耕地 地区の範囲としては、山の中にある地区のためか、特別意識されているようでもなかった。また、耕地としては、本谷という山のある小字に、戦前の頃に2、3枚の田んぼがあったそうだが、あまり効率のよい仕事ではなかったために、戦前のうちになくなったそうである。 また、楠地区は、戦後の圃場整備があまり行われていないそうである。行われたのは牟田の一部だけだそうだ。その理由としては、圃場整備を行うにもお金がかかるし、山間部の土地だけに整備のしようがないということだった。また、現時点において、楠の中心をはしる道が、拡張作業が行われている。以前にも一度行われているそうだが、現時点でもやっと普通車が2台通れるくらいの広さである。昔はどんなに狭かったかが想像される。 また、後から気がついたのだが、区長さんが示された地区の中に、小名の“椴の木”が入っていたし、また“浦谷”は“浦ノ谷”と記述するそうである。
地区の生活に必要な土地 村の生活に必要な土地、つまり入会地だが、始めに“入会地はありましたか?”ときいても、理解されなかった。“草をとるような場所です”と言ったら、分かっていただいた。地区のあちらこちらにあったそうだが、主として“カンノタン”(小字にして“勘ノ谷”)と呼ばれる所に子供同士で連れだっていって、草を刈ってきたそうである。 また、化学肥料の前の肥料として、原さんの頭の中にあるのは、“こえだめ”、いわゆる人糞であるようだ。この地区の近くには、昔、炭坑があったそうで、そこで働く人達の人糞を運んできていたそうである。
地区の祭祀について @4月16日:春祭り A12月17日:秋祭り B6月の田植えが終わった後の日曜日:願成就(ガンジョジ) C9月:彼岸祭り まず、楠地区には楠神社がある。楠神社は山の中にあり、そこに行くまではかなり怖い。暗く、細く、苔の生えた石段を登っていくと、到着する。一人でその神社に行こうとしたので、怖くて途中で引き返してしまったくらいだ。人気はなく、とにかく暗い。 @Aのお祭りについては、現在はその日に一番近い日曜日に行うそうだ。神主さんをお呼びして、御祓いを行い、春祭りにおいては稲の豊作と地区の人々の一年間の健康をお祈りし、秋祭りにおいてはその年の収穫に感謝するそうである。 Bについては、事実上は地区の人々の交流を深めるためのものであるようだ。お宮を参り、各個人でご飯を神に捧げるのだそうだ。その後で公民館に集まり、皆でお酒を飲むそうである。その時に食べる料理は、昔は各家庭で作って持ち寄ったそうだが、今となっては仕出し屋さんに注文しているそうだ。原さんはそれが少し寂しいとおっしゃっていた。 楠神社は先に説明した楠の木の幹が御神木として奉ってあるそうだ。また、話に矛盾が生じるのだが、牟田地区の圃場整備の際に、この楠の根の部分が出てきたそうだ。この根の部分も神社に奉ろうということになって、神社まで運んできていたそうだ。原さんにも少しめんどうだという気があったそうだ。しかし、ある日突然、その根の部分が忽然と神社からなくなっていたそうだ。これは一体どうしたことであろうか。
村の墓場 これは特別調べたという訳ではなく、地区の中を歩いてみた時に気づいたのだが、ある家があると、その一家のお墓はその家のすぐ近くにあるということだ。お墓といえば、お寺に集中してある光景しか知らなかったので、各家のすぐ近くにお墓があるところを見たので、これが本来あるべき姿なのかもしれないと思った。
村のこれから お話をうかがった原さんのお宅は小さな子供はいないそうだ。くわしくはうかがわなかったが、原さんの御両親と奥さんともう一人女の方がいらしたが、確かに小さなお子さんがいる感じではなかった。そのために生活に張りがないとおっしゃっていた。後継ぎはとおききしたところ、長男の方が継ぐ予定であるそうだ。今は長崎にお住まいだそうで、その奥さんは小学校の先生であるそうだ。親としては、やはり農家を継いでほしいということだが、今の時代はそういう風に言うのは、はやらないのだろうねと笑ってあった。長男の方が帰ってこられるまでは、自分で畑を耕すとおっしゃっていた。 地区全体としては、急激に家数が減少していくことはないとおっしゃっていた。地区全体として兼業農家を行っているそうだ。そのため、昔と異なり、地区全体が1つの考えを持つということがなくなって、個々人がそれぞれの考え方を持つようになり、地区長としては、少しずつやりにくくなってきているとおっしゃっていた。そのためだと思うのだが、私が古老を紹介してくださいとお願いしても、結局最後まで紹介していただけなかった。
現地調査を行って 急にペアの人が来れなくなって、一人で現地調査を行ったのだが、とてもおもしろかった。 私は、本当は、史学の勉強というのは、いろいろな史料を読み込んで、そこから発展をしていくものだと思っていた。だから、私は、現地調査とかフィールドワークというものは必要ないし、嫌いであった。 しかし、今回の調査を通して、普通の土地の普通の人々を見れたと思う。歴史というのは、その中にいつも人間がいるから、すごく楽しいのである。それなのに、史料だけを元に昔を探ろうとするのは、すごく大きな矛盾を含んでいるなと考えさせられる1日だった。
お話をうかがった方 原 満雄さん S11年4月 原 ナツさんM36年4月 |