【東松浦郡相知町黒岩村】
歴史と異文化理解Aレポート 調査日H9.6.29 1LA97016猪川 映、1LA97057大川健太郎
お話を伺った方々:冨田ミサヲさん(大正14年生) 冨田トミヨさん(大正12年生) 冨田栄納さん(昭和22年生) 冨田重雄さん(明治32年生)
行動記録 AM10:10荒瀬橋を渡り、大野へ来た所でバスを下り、黒岩方面へ歩いていき、数分後、菅原社(=天神社)入口へ到着する。ここで入口の石碑に氏子総代とあるのを発見する。その後、通りすがりの方に聞き込みを行うべく道を上る。 10:17 畑で農作業をなさっていた冨田ミサヲさんを発見し、聞き込みにとりかかる。 11:15 一通りの聞き込みを終え、お礼を述べて別れるが、すぐにお名前をうかがい忘れていたことに気づき、走って戻ることになる。失敗。 11:30 道の端でうかがった話を整理した後、もうお昼時にそろそろかかるので、昼食を済ませ、しばらくしてから家の方へ行くことにする。道を下って天神社に入り、くもの巣をかきわけつつ階段を登っていたところ、途中の石碑に「天照皇大神」とあるのを見つけ、これは「アマテラスオオミカミ」と読むのかで頭を悩ます。 11:40 神社に到着。かなり古びた建物で、広い空間があることから、ここで寄り合いなどを行っていたのではないかと話す。ここでは昼食をとれそうにないので、裏の道を下り、黒岩池に出てから、医王寺へ行ってみることにする。 PM12:00 医王寺に到着。最近建て替えたのかやけに建物が白くて金色がまぶしい。中に入ってしばらくめぐってみたが、昼食をとるのに適当な場所が見つからず、結局、寺の前の樹齢450年だという杉の木の下で昼食をとることにする。ちなみに私(大川)はさけおにぎりで、相棒の猪川君はカロリーメイトであった。少しわびしいかもしれない。昼食の後、しばらく雑談する。周りは木に囲まれ、鳥が鳴いて、非常に静かで気持ちよかった。 12:30 医王寺から下り、松浦川ぞいに歩いて地理を確かめることにし、ずっと歩いてみる。途中で話に聞いたフルコノミゾを確認する。その後、川ぞいのはだか道でしばらく休憩し、お昼時が過ぎるのを待って、聞き込みをしに家に出向くことにする。 1:30 いくつか家を見て回った後、外で野菜をしこんでいらっしゃった冨田トミヨさんと、その息子さんの冨田栄納さんにお話を快くうかがわせていただく。 2:10 お話をうかがった後、トミヨさんから昔のことを調べているのなら、と最年長の冨田重雄さんを紹介してもらい、たずねてみることにする。 2:20 冨田重雄さんのお宅に到着。その家のお嫁さんに取り次いでいただいてお話をうかがわせていただくも、少々耳が遠かったため、最初は調査の対象ではない話を聞くことになってしまう。 3:30 お話を聴き終わる。お嫁さんが冷たい麦茶を出してくれ、ありがたく頂戴する。ここで、私達が何者かは一応言ったはずではあったのだが、きかれ、九大生と答えたところ、重雄さんは役場かどこかの職員だと思っていたとおっしゃられる。その後、お礼を述べて別れようとした時に、お嫁さんが缶サイダーをくださった。ありがたいことである。それからお礼を述べて別れ、バスの乗り場へ向かう。 3:35 バス乗り場へ到着。他の地区を調べていた人達と居合わせる。バスが来るまでの間に、サイダー飲みつつ、調査の整理を行う。 4:10 長い間待って、やっと1号車が到着。早い方に乗り込んでよいとのことだったので、乗り込み、帰途につく。 以上。
冨田ミサヲさん(大正14年生)の話 ・村の名前(シュウジ)について 黒岩村は4隣保に分かれている。天神社の辺の集落は、川に近い方から山に向かって下組・中組・上組と呼び、伊岐佐に近い川ぞいの集落は、石原組と呼ばれる。 (図1)省略、原本は佐賀県立図書館所蔵
・村の水利について 水田にかかる水は、伊岐佐にある伊岐佐川の黒岩の井手からひいている。ここからひいた水は、松浦川と道と由良川に囲まれる黒岩のタンナカだけで使用している。 1994年の大旱魃の時、黒岩の井手の水は枯れなかったが、ミサヲさんがその時ボーリングしたところ、隣の井戸が枯れた。その隣人は、井戸水でハウス栽培をしていたので、ミサヲさんに文句を言ってきた。 40年前、もし大旱魃があったら、水道がなかったので井戸を掘っただろうとおっしゃっていた。タンナカには松浦川からポンプで水をくみ上げていたそうだ。
・村の道について 村の場所は基本的に昔と変わっていないそうだ。ただし、道を削ったり盛ったりして、幅を広げ平らにしている。 (図2)省略
・祭祀について 黒岩村の住民は、菅原社(天神社)の氏子である。氏子の中から60才以上の3人が氏子総代になり、3年間、毎月1度、菅原社の掃除をする。菅原社では4月初めの土日に春祭りがあり、7月1日にウエツケオガンジョウジュ(植付御願成就)の祭りをし、10月、稲刈り前に秋祭りをする。 他にヨドヒメノマツリ(よど姫の祭り)というものがある。これは婦人会の祭りで、石原組の上で、4月10日ごろ、土日に行われる。よど姫は安産の神だそうだ。
・村のこれから 交通の面で、農免道や林道が整備されるだろうとおっしゃっていた。また、若い人は勤めに出ていき、農家は後継者不足のため高齢化が進むだろうとおっしゃっていた。
冨田栄納さん(昭和22年生)、冨田トミヨさん(大正12年生) 冨田栄納さんからは、タンナカの字名についてうかがった(栄納さんは字名を「あて字」と呼んでいた)。栄納さんはでかける所だったので、トミヨさんから続きをうかがった。タンナカのあて字は、先に冨田ミサヲさんがおっしゃっていたのと違う所があった。最終的には、この後うかがった冨田重雄さんのおっしゃっていたあて字を採用した。 村の耕地についてお話をうかがったところ、村の耕地に良田・悪田の差はなかったそうだ。肥料は下肥と牛馬に草を食べさせて作るマヤンコエ(馬屋の肥)を昔は使っていたそうだ。裏作に関しては、昔は麦や菜種、今はたまねぎをつくっている。戦後、下肥の取り合いがあったそうだ。 荒瀬橋の昔のことを尋ねたところ、昔から荒瀬橋と呼んでおり、またよく流されていたそうだ。 村の道について尋ねたところ、古い道は今の道と同じ所を通っていたとのことだった。 村の水利について尋ねたところ、田にひく水は黒岩井手からひいたり、地下水をくみ上げたりするそうだ。水は豊かで、3年前の旱魃でも特に苦労はなく、それが40年前でも一緒だったであろうとのことである。 最後に、村のこれからについてうかがったところ、農免道路は増えるが、米価が上がらないので、農家は苦しく、後継者もいない、とのことだった。
冨田重雄さん(明治32年生)の話 この方をたずねる前にお話をうかがった冨田トミヨさんからご紹介を受けて、冨田重雄さんの所をたずねた。96歳というご高齢であられたため、少々耳が遠く、最初はこちらのうかがいたいことを理解していただくのに時間がかかってしまったが、何とかお話をうかがうことができた。 最初は前の方々からうかがった地名の確認などを行い、また新たな地名を思い出していただき、記した。それから山について、昔は入り会い山というものは存在せず、山を持っている人は自分の山から、山を持っていない人は数世帯でお金を出し合って山を買い、そこからたきぎを調達していたということや、そのたきぎを唐津の方まで持って行って売っていたということを教えていただいた。それから、陣の山などよりも奥にある野山という山では、昔、野焼きを行っており、そこに生えた草を刈って牛馬に食べさせ、そのふんを肥料として、化学肥料を使用する以前に使用していたそうであり、これを牛や馬に「ひかせる」と言うそうである。野焼きは各々の家で場所が分担されていたそうであるが、戦争で男手が少なくなったために、とうとう行うことができなくなり、戦後には行われなくなってしまったそうである。また、黒岩の水利についておたずねしたところ、山との関連があって、昔は今と違って山に雪が降って積もり、その雪がとけた水が村のいたる所で小川をつくっており、夏でも水の少なさに困るということはなく、むしろ今の方が日照りによる水不足が起こりやすくなったそうである。 それから、村の道に関しては、やはり他の方々からうかがったのと同じく、昔と今の道は変わってはおらず、整備されただけであるそうである。 また、水田に関してうかがったところ、黒岩一帯の水田には特にとれ高の目立った差はなく、化学肥料が入る前は反当たり10俵程度しかとれず、戦前は豊かな農民が地主となり、貧しい農民を小作人として働かせており、反当たり8俵もの小作料を取り立てていたために、小作人の生活は相当苦しいものであったらしい。話をきくと、今でもここは小作人(もしくは生産請負人かもしれない)がおり、しかし反当たり1俵程度の小作料で済むので楽ではあるらしい。 最後に、黒岩の変わり方やこれからについてうかがったところ、人間の出入りがそこまで多くはなく変化しておらず、農業に関してはやはり後継者不足が深刻であり、また専業農家では生活が成り立たないために兼業でやらざるを得ないそうである。今後の日本の農業については、国の方が米の価格を引き上げるなどして、農家が専業でやっていけるようにしてほしいとおっしゃっておられた。 お話をうかがってみて、やはり96歳で最年長(黒岩一帯で)の方であったため、他の人々よりも正確な情報を得て、なおかつ様々な話をうかがうことができ、最も充実した聞き込みとなった。他の人々も含めて、皆が好意的に接してくださったことが嬉しかった。 |