<入会山>
小字大良の中にある山が共同の草刈り場として使われていた。その山は入会山として周辺に住む人々に共同で使われていた。昔は草刈りをしてそれをそのまま置いておいて干して、その後それらを肥料として田に入れていたのだが、最近では化学肥料を使っているので、その必要もなくなり杉を植えるようになり、採草地はなくなってしまった。
<共有林>
共有林は久保地区の山に少しずつ散らばってあるのだが、そのほとんどは、小字猿渡に集中している。そして、猿渡の中でも、農免道路とよばれる道路に沿って集っている。具体的な共有林の面積はわからない。共有林のほとんどが杉の木である。
<共同風呂>
久保地区の各小字に1つずつぐらいあった。その中でも浦谷(ウランタニ)にあった共同風呂だけは混浴だった。風呂を沸かすためには薪が燃料として使われていたが、いわゆる五右衛門風呂ではなく沸かした湯を大きな浴槽にずっと流しこみっぱなしにしておくというスタイルの風呂であった。
<燃料>
昔は主に薪が燃料として使われていた。それは入会山から取ってきていた。
<久保について>
昔は炭鉱の街として栄えていた。戦前には上相知炭鉱、昭和30年〜34年頃には新相知炭鉱と呼ばれた炭鉱がありとても栄えていたが、現在は残っていない。炭鉱があった頃に比べて人口は減少し、炭鉱があった頃から主人以外は田畑の仕事をしに相知地区に行く人が多かった。炭鉱がなくなってからは、その人数が増え、また田畑の仕事では割があまり良くないということで建設業などをする人たちも増えてきている。
<久保の変様>
久保には昔、三菱系の炭鉱があり当時は大変栄えていて活気があったそうだ。人口は約30,000人もいて若者もいた。そして、炭鉱がある、つまり仕事の口があるということで人も増えていた。しかし、炭鉱が閉山してしまうと人口もだんだん減っていき、 1番多かった頃の約3分の1の9,900人程度にまで減ってしまった。しかも、若い人は他の仕事を見つけ少なくなってしまい、老人が多くて若者が少ないという状況になっている。
<その他>
お話を聞いている中でとても面白い話があった。それはそれぞれの人に2つの名前があったということである。
(例) 塚本卯太郎(うたろう)→塚本又蔵(またぞう)
このように2つの呼び名があったというのは現在ではなくなってしまっているが、戦争の頃にこのように名前が2つあったそうなので、その理由としては戦争の兵役から免除されるためではないかということだが、はっきりとはわからないそうだ。
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