東松浦郡相知町久保

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97201灰塚崇

1LA97288吉本真祐

調査日 629()

話者:塚本太郎さま(区長)  58

塚本治市さま 75

 

<しこ名一覧>

村の名前

しこ名一覧(11)

久保

・シモヅル

・シイノクボ(椎久保)

・トリゴエ(鳥越)

・カミノタニ(神の谷)

・シルミゾ(汁溝)

・ウランタニ(浦ン谷)

・ミネダニ(峰谷)

・ヒコウキタ

・フルコ

・スセイノ

・ムクロダニ

 

田畑

小字畠田のうちに

・ヒコウキタ

・フルコ

・シモヅル

山、谷

小字森の前のうちに

・ウランタニ(浦谷)

・ミネダニ(峰谷)

小字谷川添のうちに

・ミネダニ(峰谷)

・シルミゾ(汁溝)

・カミノタニ(神の谷)

小字大良のうちに

・トリゴエ(鳥越)

・ムクロダニ

小字柳谷のうちに

・シイノクボ(椎久保)

小字煤井野のうちに

・スセイノ

小字上煤井野のうちに

・スセイノ

 

久保

使用している用水の名前

用水源

共有している他の村

特になし

松浦川

中溜

下溜

久保ほか3ヶ所

牟田部、佐里村、上相知

昔の配水の慣行と約束事

昔の水争いの有無

中溜と下溜という大きな溜池には水番をつけていた。そして、その人が溜池の水を責任をもって管理して誰も勝手に使えないようにしていた。そして久保全体に少しずつ水を流していた。その他は松浦川の水を引いて、これは主に農業用水に使われた。

山に降った雨水を取り合って隣の牟田部と佐里村とよく争った。その原因は3つの地区のちょうど境界付近にある山に降った雨水が自分たちの村の方へ流れてくるようにしようと、山へ登ってそれぞれの村の人たちが山の頂上付近から村へ向かって溝を掘り、少しでも雨水が自分の村へ流れ込みやすくなるようにしようしていたからである。また、1つの村がそのようなことをすると、他の2つの村もそれに対抗して負けまいと真似をして、それがずっと繰り返されていた。

 

もし大旱魃が40年前の出来事だったらどうなっていたか。

1994年の大旱魃の時はどのようにして水をまかなったか。何か特別な水対策をしたのか。

山に溜池があったため、他の地区に比べて久保の人たちはあまり被害がなかったが、1つの溜池がダメになったために、その溜池のもっと山の中に新しく大きな溜池を作った。そして、その溜池には水番をおき、人が勝手に水を使わないように管理した。久保の中でも平山は水が足りなくなり、被害を受けた。

1994年の大旱魃の時は実際にはほとんど被害がなかった。それは松浦川があったからで、久保の人たちは国の補助を受けてポンプを使い、松浦川の水を汲み上げて、それを生活用水に使った。また、灌漑用の電気ポンプを昭和30年頃通産省との交渉で補助してもらって手に入れていたので、農業用水はそれを使って松浦川の水を汲み上げて使い、また大きな溜池を持っていたためにそれほど水に困ることはなかった。

 

村の範囲

久保は東は山崎、西は佐里、南は相知、北は牟田部に囲まれている。その境界線は次のようになっている。

牟田部との境界…久保の北側から西側へと連なる山の峰伝いと養鶏場から山へ500メートルほど登ったところ。

山崎との境界…松浦川沿い。

佐里、相知との境界…松浦川沿いで上久保橋より北側が久保。

 

<村の耕地>

もともと久保は炭鉱の町であったために耕地面積はそれほど広くなかった。現在もそれほど広くはない。現在、久保地区に約7町、それに加えて相知地区に久保地区の人たちが持っているのが約7町、合計で1415町程度の耕地がある。昔から久保の人たちは炭鉱で働いている人以外は小作人として相知地区の方へ働きに行っていたので、現在相知地区に耕地を持っている。久保の田んぼは主に小字畠田に集中しており、昔は約11町あったのだが、松浦川の河川改修に伴い、7町に減反された。久保地区では、基本的には裏作は行われておらず、余裕があるところだけ大豆を作っている。

 

米の収穫量

現在 一反あたり、8俵半(520 kg)

昔  一反あたり、約4

 

よくとれる田…森の前、畠田、相知。中でも相知がよく取れる。

あまりとれない田…平山。一反あたり、6俵半〜7俵

 

大良の山に草刈り場があって、昔はその草を肥料として使っていた。また、江戸時代から明治にかけては人の尿を肥料として使用していた。その時には、し尿を集めるときに、その量によりあわ・米などがもらえた。昭和に入ってもはじめは、し尿を使っていたが、戦後ごろから化学肥料が使われるようになったが、それから収穫量は2倍ほどに増えた。

その他

<入会山>

小字大良の中にある山が共同の草刈り場として使われていた。その山は入会山として周辺に住む人々に共同で使われていた。昔は草刈りをしてそれをそのまま置いておいて干して、その後それらを肥料として田に入れていたのだが、最近では化学肥料を使っているので、その必要もなくなり杉を植えるようになり、採草地はなくなってしまった。

 

<共有林>

共有林は久保地区の山に少しずつ散らばってあるのだが、そのほとんどは、小字猿渡に集中している。そして、猿渡の中でも、農免道路とよばれる道路に沿って集っている。具体的な共有林の面積はわからない。共有林のほとんどが杉の木である。

 

<共同風呂>

久保地区の各小字に1つずつぐらいあった。その中でも浦谷(ウランタニ)にあった共同風呂だけは混浴だった。風呂を沸かすためには薪が燃料として使われていたが、いわゆる五右衛門風呂ではなく沸かした湯を大きな浴槽にずっと流しこみっぱなしにしておくというスタイルの風呂であった。

 

<燃料>

昔は主に薪が燃料として使われていた。それは入会山から取ってきていた。

 

<久保について>

昔は炭鉱の街として栄えていた。戦前には上相知炭鉱、昭和30年〜34年頃には新相知炭鉱と呼ばれた炭鉱がありとても栄えていたが、現在は残っていない。炭鉱があった頃に比べて人口は減少し、炭鉱があった頃から主人以外は田畑の仕事をしに相知地区に行く人が多かった。炭鉱がなくなってからは、その人数が増え、また田畑の仕事では割があまり良くないということで建設業などをする人たちも増えてきている。

 

<久保の変様>

久保には昔、三菱系の炭鉱があり当時は大変栄えていて活気があったそうだ。人口は約30,000人もいて若者もいた。そして、炭鉱がある、つまり仕事の口があるということで人も増えていた。しかし、炭鉱が閉山してしまうと人口もだんだん減っていき、 1番多かった頃の約3分の19,900人程度にまで減ってしまった。しかも、若い人は他の仕事を見つけ少なくなってしまい、老人が多くて若者が少ないという状況になっている。

 

<その他>

お話を聞いている中でとても面白い話があった。それはそれぞれの人に2つの名前があったということである。

() 塚本卯太郎(うたろう)→塚本又蔵(またぞう)

このように2つの呼び名があったというのは現在ではなくなってしまっているが、戦争の頃にこのように名前が2つあったそうなので、その理由としては戦争の兵役から免除されるためではないかということだが、はっきりとはわからないそうだ。

 

久保は昔、炭鉱の町として発達していたけれども、現在では炭鉱もなくなり、人口も少しずつ減っている。田で働くのも久保地区と相知地区が半分ずつという具合だし、農業をするより他の仕事をする方が割がいいため、他へ働きに行く人が増えてきているそうです。お年寄りの方から「老人多くて若者少なし」ということを聞きました。現在の久保の区長さんは58歳でしたが、しこ名などについてはもうほとんど知らないと言われました。もう少ししたら今回調査したようなことはもう誰も知らなくなるのかと思うと少しさみしく感じました。



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