【東松浦郡相知町川添】

佐賀現地調査レポート

1LA97193 那須華恵

1LA97024 花田伊舞

1LA97216 日高直美

調査日 629()

話者:区長 井上一さん(昭和7年生まれ)

岸川徳美さん(昭和12年生まれ)

 

◎ 一日の行動記録

1030分 川添到着→川添にはアポイントを取っている人がいないため、近くの家を11軒訪ねて回る。

収穫なし→区長井上一さん宅を訪問し、アポイントを取る。

近くの畑で仕事をしていた岸川徳美さん昭和12年生まれに水路や観光について話を伺う。

再び井上さん(昭和7年生まれ)宅へ。区長さんだけあって様々な話をしてくださった。

2時 調査終了。昼食。

345分まで 川辺でくつろぐ。

 

反省、感想

肝心のしこ名が殆ど分からなかった。区長さんも小字でよぶことはあっても、田んぼの一つ一つを昔から特別な名前をつけて呼ぶことはないとおっしゃっていた。ただ、昔の村の有り様や観光についてはいろいろな話を聞くことができ、楽しかった。手当たり次第にいろんなお宅を訪ねたが、どの方も親切に応じて下さったのが印象的だった。特に区長さんの息子さんが九大の法学部を卒業していたそうで、不思議な縁を感じた。

 

<村の水利>

私たちが担当した地区は平山川から水を引いている。井堰を使って川の水位と田んぼの高さを同じにし、上流の田んぼから順々に水を引くのが昔からの約束であるそうだ。

水に関しては、水田の関係者で話し合いが行われ、責任者1人が水路管理にあたっている。昔は625日から629日くらいから一斉に田植えをしていたが、現在は「おいしい早稲」、「アコガレ」といった品種が登場し、早い田んぼでは65日頃から田植えをするため、個人が水路に板を張って水をせき止め、好きな時に水を引けるよう調節することが近頃は認められている。

元来水に恵まれている地区なので、揉めごとはほとんどないが、近年機械化、水田の大規模化に伴い、農作をする家が44軒から12軒に減ったため、水路掃除が人手不足で大変だと聞いた。

※井堰は昔は石積みだったが、現在はコンクリートで作られている。

※水田の一部は溜池から水を引いていた。そのことについては別紙参照。

<1994年の旱魃>

水利権により、普段は他の家の水を勝手に引くことができないが、あの時はポンプで他の家から水を借りたり、川から直接水を組み上げたりし田に水を入れたそうだ。

ポンプは村共有のものとして国から補助金をもらって購入したもので、各個人が自由に利用できた。地区全体で協力し、助けあったので無事のりきれたと区長さんは話してくれた。

 

<村の耕地>

川添地区の水田は谷間に作られたもので、面積も21ヘクタールと小さく、さらに周囲が山に囲まれて日当たりが悪く、霜もひどい。そのため裏作はなく、焼畑、キイノもない。それでも昭和37年にみかんブームが押し寄せ、「みかん植えずば百姓でなし」と言われるほどみかんが盛んに作られたが、長続きせず土地を県に7ヘクタールほど売り、借金をなんとか返した。という事例はあったようだ。今はみかんの名残は全くない。

その後、タマネギの栽培が広まり、田植え前にタマネギを作っていたが、品種が変わり、早稲中心となったため、タマネギも今では3軒が作るのみになった。こうして今ではほとんどが米only である 。収穫はタマネギと並行している時期で6俵が最高で、今は普通で10俵、最高で12俵ぐらいだそうだ。

川添地区の米は政府米で160 kgにつき19,000円から20,000円である。

次に肥料についてだが、戦前の肥料は牛糞が主である。また観光の栄えた地区なので、炭坑場からの下肥を買うこともあったそうだ。その後化学肥料が導入され、窒素リン酸を含んだ肥料を利用していたが、農協の指導が入り、今はそれに従っている。

他の生活に必要な燃料はガス導入前は山から木をきりだし、薪中心だったようだ。また、この地区には1つの入会山はなかった。

・余談1

昔はいくつかの共同風呂五右衛門風呂があった。

・余談2

昔、牛には藁草履をはかせていた。角を運ぶ虫の蹄を守るために履かせていたそうだ。

・余談3

馬頭とは牛の手入れのことである。爪を切ったりコテで焼きを入れたりした、とのこと。

 

 

<しこ名一覧>  

 

小字

しこ名

田畑

川添

下原

二の瀬

裏の谷

西の谷

佐里道

コウゾエ

シモバル

タアバル(田原)

ゴコウ(五坑)

ヒラヤマシモ(平山下)

サリミチ

 

<村の水利用−田と溜池>

水源

溜池

利用地()

平山川

藤原溜池

谷田溜池

内浦溜池

佐里道溜池

藤原、丸石

谷田、下原、押川、二の瀬

内浦、前原、裏の谷

佐里道、川添

支出

 

※これらの溜池は「ツツミ」とも呼ばれ、その規模が大きくなると「オオダメ」と呼ばれている。

※他の水位の調整は、井堰によってなされていることは説明しましたが、それに追加という形で、水口の説明をさせてもらいます。

水口とはミナクチと呼ばれ、井堰によってせき止められた水を排出する場所のことです。井堰が水の調節に大きな役割を果たすと同時に、ミナクチもそれを手助ける、いわば補助的なものなのです。

 

<村の道>

隣の町や村につながる、川に沿った大きな道(県道)は、往還と呼ばれていて、昔は石炭などの鉱物が運ばれていた。炭坑については別紙参照(省略:原本は佐賀県立図書館所蔵)

村の農道や、小さな道はムラミチと呼ばれていて道具を運んだり、個人的な目的で利用されたりしていた。ただし、田んぼへ行く時は昔は発達していなかったために、自分の田んぼへ行く時、隣の人の田んぼに足を踏み入れて通り過ぎる事は黙認されていた。

 

<屋号>

右図の赤で書いた「宗田」さん宅は、隣の家の宗田さんと区別するために「肥後屋」という屋号を用いていた。

 

<その他>

1 川添よりずっと北の方向にある「ソデキリ橋」から南に下り「八幡神社」辺りまでは、江戸時代天領であった。

このため他の周りの地域よりも身分が高い地域だった。また、江戸、つまりでいう東京の直営地であったため、言葉に方言や訛りがなく、標準語に近いとても聴きやすい言葉遣いだった。

 

2 田んぼのほどは田ん中と呼ぶことが多いが、その他にも「畝地」(セマチ)と呼ばれることもあり、田んぼの善し悪しを「畝地内が悪い」と「畝地内」が良いという。

 

<炭鉱について>

今回私たちが調査した相知町川添方面は炭鉱の町だった。明治時代に最も栄えていたらしい。かつての炭坑の町の面影はなかったが、五坑という地名が当時川添炭坑の町だったことを物語っている。

五坑とはその鉱山が5番目に開かれたのにちなんで付けられた。昭和12年にこの五坑は開鉱され、 38年に閉鉱した。五坑から出かけてき石炭は坑道を通って石屋に運ばれた。石屋は松浦川の向こう岸の広瀬のほうにあり、当時は坑道が石屋まで続いていた。右下図参照

現在橋はこの近辺では上流側より井手の原橋、二ノ瀬橋、川添橋の3本だが、以前はこの二ノ瀬橋の下流にもう1本橋があり、そこを炭坑道路が通っていたらしい。トロッコに乗せて運んでいたそうだ。

かつては炭鉱の町として賑わい、世帯数も500世帯ほどあった川添だが、井戸が坑害で打撃を受けたり、地下を掘るので地下水が減少しすっからかんになったりしてしまった。 

エネルギー転換期を迎えることで次第に街も観光の顔を捨てざるを得なかった。

 

*坑害による被害

・地下水がなくなり、井戸が駄目になった。

・坑害を防ぐため、川をコンクリートで固めた結果、川の生物が減少した。具体的には、カニ、あゆ、うなぎ、ハヤ、コイ、フナなど

 

<祭祀について>

川添では3人の神様を祀っていた。場所は下図の通り。

川添                                                                                                      平山下へ

下流        二ノ瀬           上流

――――――――――中山川―――――――――――

 薬師如来様八幡様  八幡様          権現様

五社神社

○祭りの時期などについて

・薬師如来様……412日に祭りを催す。

・八幡様……中秋の名月の日に祭りを催す。昔は子供の相撲がこの時祭りの1部として執り行われていたが、現在は少子化のため相撲は取られなくなった。

・権現様……村の守り主とされている。 3月の彼岸の時に祭りが催される。また、盆踊りなども行われる。

 

<村の今後について>

川添は以前は炭鉱の町であり、農業の町だった。みかん、タマネギなどを経て。現在でも米を作っているが、このままでは確実に米作りをする家は減っていくと予想される。

その理由としては若い人の農業離れ、実際に調査にご協力くださった方々の息子さんなどは、とんどが役所へ仕事に行っていたりした。少子化や高齢化の問題などが挙げられる。実際には川添に住む70歳以上の人の数は52人と高かった。

また、現在では農業だけで生計を立てる事は難しいので、専業農家の数は皆無に等しい。ほとんどの農家は別の仕事と掛け持ちする。いわゆる兼業農家ということだった。村の今後については何らかの転換を迎えなければならないと区長さんは言った。



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