【東松浦郡相知町上園村】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97184中村真紀

1LA97219平田幹

調査日 629()

話者:山口正敏さま:大正151月生まれ。

   山口一正さま:昭和26月生まれ。

 

<しこ名及一覧>  

村名

分類

小字

しこ名

上園村

宅地

立石

緑山

畑江・半田

・コメノヤマ(米の山)

・ミドリマチ(緑町)

・サカイマチ(栄町)

田畑

六の坪

・ヨンノツボ(四の坪)

・ゴノツボ(五の坪)

・ロクノツボ(六の坪)

立石−畑江

畑江−六の坪

・ヨネノサンバシ(米の山橋)

・ヒワタリバシ(日渡橋)

井手

亀ノ戸

・カメノトイセキ(亀の戸井堰)

立石−上園

・タツイシイセキ(立石井堰)

・イデノカワイセキ(井手の川井堰)

六の坪−畑江

・シンイデイセキ(新井手堰)

浜白

・ヨコマクライセキ(横枕井堰)

山道

川添・岩坂・佐里

・サリゴエ(佐里越)

押川

・オシカワゴエ(押川越)

押川

・オシカワノヤマ(押川野山)

水路

小路

緑山

・キツネダニ(キツネ谷)

山林

屋号

上園

・山口政敏家(ママ)……ヘボギ(辺保木)

・山口厚夫家(ママ)……クマモト(熊本)

 

村名

使用している水路

用水源

共有している他の村

上園村

横枕井堰

厳木川

平山川

・浜白、六の坪、平田、畑江、中園、長尾、下園、浦の川、管田、和田、高橋、杉野、畑田、天徳

昔の配水の慣行・約束事

昔の水争いの有無

特別な慣行・約束事はなかったが、横枕井堰を使用している地域が広いため、井堰の近くの畑江、六の坪、平田が水を使いすぎると浦の川と管田は水がこなくなるため水の無駄遣いがないかよく点検に来ていたということである。

水争いはなかった。横枕井堰は相知地区で管理し、手入れがされていた。

 

1994(平成6)の大旱魃があったときどのように水をまかなったか。

 平成6年の大旱魃の時にも水はあったそうだ。しかし、やはり横枕井堰から遠い管田などはかなり苦労したということだ。そのため横枕井堰に近い栄町(畑江、平田一帯をこうおっしゃった)と、遠い管田などでどちらかが、水を田に流し入れて2日程たったらそこで水を止めて、もう一方へ流す、というように交替で水を使ったそうだ。時間給水に近い方法。他の村から分けてもらう、犠牲田を作るということはなかった。また、平成6年ではなく、昭和14年に一度、平山川がまったく流れなくなったことがあるそうだが、この時も交替制でやったということだった。

 

・もし平成6年の大旱魃が40年前に起こったらどうなっていたか。

 40年前にはすでに、横枕井堰ができており、もしそのころ大旱魃が起きても影響はなかった。

 

・昔村で特に米のとれる所、余りとれない所があったか。また、戦前、化学肥料が入る前で米は反当何俵か。化学肥料ができる前の肥料や、化学肥料が入った後、それ以前の違いについて。

 横枕井堰に近い六の坪が一番とれる。この六の坪は、小字の六の坪をさらに3つに分けて、四の坪、五の坪、六の坪とおっしゃったが、その六の坪のことで、鉄道に一番近い所の田。平山川が大水で氾濫すると泥水の小さい粒子が鉄道で止められ、六の坪一帯に積もるため、六の坪は肥沃になる。そのため、六の坪が一番米がとれるそうだ。また、逆に米がとれない所は立石、亀の戸でこの土地は砂地だから米もとれにくい。

 麦が作れる田は、平山川の両側150m程の田で、この土地はよく乾くため麦がよくとれる。それ以外の田では難しい。化学肥料がない時代は、押川の野山という山から草(かや)を刈り取ってきて、それを肥料にしていた。刈り取りの日は何日〜何日までと決まっており、皆で一斉に草を刈り、田へ持っていく。現在は、化学肥料ができたので、草を刈る必要がないため、その山には杉の木が植えてある。草の他には、満州からきた大豆だま(大豆の油を絞ったかす)をけずって肥料にしていた。化学肥料がない時代は一反当たり5俵〜6俵とれればよい方で、現在は一反当たり89俵の米がとれる。

 

・古い道について

 押川越…大八車で石炭が運ばれてきた。

 

・村にある神社とその祭りについて

 熊野神社:相知供日祭り(101920) 何の神様かは不明

 <大名行列>

 @※図省略 2人で1つかつぐ…2人×4個=8

 A※図省略 羽車(ハグマ)2人×6本=12

2人で1本をもつ(大きくてとても重いため)

上下にゆり動かしながらくるくる回し、馬のたてがみに見立てた毛を広げる

 B※図省略 みこし…大人数でかつぐ。素晴らしいかざりつけがあり、とても華やか。

 C※図省略 子ども羽車…子ども用の小さな羽車

 上のような順番でパレードをする。

 順路:熊野神社→右図(※図省略)の赤い道(住宅地:浦ノ川、下鶴、上鶴、下園、中園、平田)→熊野神社

 

・村の姿のかわり方、これから、今後の日本農業への展望について

 今、上園だけで47戸。元々はその半分だった。ここ10年くらいの間に田舎がいいと移り住んでくる人がいて、このように戸数が増えた。移り住んでくる人達は、子ども連れの夫婦が多い。過疎化にはなっていない。上園の人で、若い人達は唐津などに通いで仕事に行っている。大学は福岡に行く人が多いということだ。

 山のある所にレジャー地を作ろうという計画があったがその案はなくなった。土地の持ち主としては、杉の木などを植林しても育つのに30年もかかってしまい、それより企業に土地を売った方が高くつくからその方がいいが、私達がお話を伺った山口さんは“やっぱり山はあった方がいい”とおっしゃった。

 今、村では若い夫婦は外に出て働き、農業は田植え・刈入れしか一緒にしないというような第二種兼業農家がほとんどであり、働き手がいないという問題がある。そこで農協内で働き手を作ってその人を派遣するような考え方がある。今後、第二種兼業農家がどうなっていくのかを心配なさっていた。

 

<一日の行動記録>

AM 8:15 六本松キャンパス集合

    8:30 六本松キャンパス出発

   10:30 中園着。自分達のいる位置がつかめず、うろうろする。やっとわかって歩き出す。行き過ぎる。戻る。

   11:00 山口正敏さん家着。色々なお話を聞かせていただく。

PM 1:00 山口正敏さん家を出る。

    1:10 昼食をとる。

    1:45 山口一正さん家着。資料を出してもらってお話を聞く。

    2:45 山口一正さん家を出る。時間が余ったので、涼しげな木陰で休む。

    3:40 バスのお迎え。

    6:30 六本松キャンパス着。

 

・調査を終えて

 予定の時間よりも、ずいぶん早く訪ねていってしまったのに、山口正敏さんは快く迎えてくださり、2時間も様々なことを話してくださってとても感謝しています。山口一正さんも、ご自分の知っていることだけでは不十分だろうと、資料を出してきて説明してくださいました。

 ここの土地の人はいい人が多いし、空気も水もきれいで自然がたくさん残っています。福岡にもいろいろな所があるけれど、こういうのどかなところに住むのもいいなあ、と思いました。最近、環境がいいからと子どもを連れて移り住んでくる家族が多いと聞き、納得しました。これからは都市ではなくこのような村での生活を希望する人が増えていくのではないでしょうか。そして、このことが村の農業の助けとなる]結果へつながればと思います。



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