【東松浦郡相知町上中区、太良、白木】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97044 上野恭平

1LA97017 池園孝之

調査日 629()

話者:金嶽新さま 明治38年生まれ

 

<しこ名一覧>  

上中区

シュウジ

小字楠ノ木のうちに

カゴワラ、サクラダ

小字白木のうち

シラキコバ、カラツマエ

小字五反田のうちに

マツオ(松尾)、ホンド

田のしこ名については、話を聞いた人もほとんど知らなかった。田を呼ぶ時には生まれた時から、田11枚についた番号で呼んでいたということだ。

 

村の名前

使用している用水の名前

用水源

共有しているほかの村

太良

太良井手

伊岐佐川

太良、白木、馬立、楠ノ木

昔の配水の慣行・約束事

昔の水争いの有無

 

太良井手は、上中区の村が利用し、水利費は皆で負担。田の大きさで水を割り当てる。

端の方に田を持つ人々が、田に水が十分に回ってこないのを理由に夜中にこっそり水を引き、それがもとで争いがよく起こった。村同士よりも村の中での争いが多かった。

白木

使用している用水の名前

用水源

共有しているほかの村

ヤコガミ井手

伊岐佐川

なし

楠ノ木、馬立

使用している用水の名前

用水源

共有している他の村

不明

カゴワラ井手、シモ井手、カキノキ井手、イシゲラ井手

伊岐佐川

田畑に比べて、井手の方は結構話を聞くことができたが、話をしてくれたおじいさんが目が悪くなっていたのと、地図をあまり読めなかったので、井手の正確な場所はよくわからなかった。

 

一日の行動記録

まずバスを降りて歩いていると、あじさい祭りの案内に町役場の人がいたので、その人に田に詳しい人を聞いてみると、近所に昔学校の先生だった人がいると教えられたので、その人の家に行ってみた。訪ねた先の家の人は、病気で話を聞ける状態ではなかったので、次の家を訪ねることにした。次の家の人は忙しいから駄目だというので、次の家に行った。次の家ではおじいさんが出てきて、村の範囲などについて教えてもらった。さらに、次の家では、野焼きについていろいろ教えてもらった。

 

野焼きについて(Part.1

まず野焼きの行われた場所は、非常に広範囲で現在の伊岐佐ダムの周辺は、ほとんど野焼きが行われていたそうだ。野焼きの行われた土地は町の土地で、今はそれが個人に払い下げられたらしい。野焼きを行った場所では特に何かを栽培したというようなことはなく、そこに生えてきたゼンマイなどの山菜などを取っていたという。

野焼きについて教えてくれた人から、その辺りでの最長老の家を教えてもらい、その人の家へ向かった。最長老のおじいさんからは色々なことを教えていただいた。

 

野焼きについて(Part.2

野焼きの場所などは前に聞いた人とは違うところはなかったが、野焼きをした土地の利用法には、そこに生えてきた草を牛に与える牧草にしていたというものもあったそうだ。

 

干ばつについて

この村の辺りは伊岐佐ダムができた後は、干ばつの心配がなくなったようで、 三年前に干ばつがあったこともほとんど覚えていなかった。 三年前の干ばつでは、下流の方にある田が少し乾いただけで被害はほとんどなかったそうだ。昔の干ばつでは上流の方で井手に引く水を減らして、下流の方に水を多くやるという対策を取っていたそうだ。

 

神社について

大正時代までは、村にもいくつかの神様を祀った場所があったが、大正時代に今の三光神社一つにまとめたそうだ。しかし話を聞いた人の家にはお稲荷様が祀ってあったので、村の人の家にもそれぞれ祀っているものがあるかもしれない。

 

祭りについて

祭りはあじさい祭りが有名。近隣から非常に多くの人々がやってきて、町が活気づく。あじさい祭りの謂れはよく分からなかった。

この人の家で、ジュースとたい焼きをご馳走になった。この人の家は一軒離れた高台にあったが、何故だろう、昔からの有力者の家はこういう所にあるものなのだろうか。しばらくして町会議員の息子さんが帰ってきたが忙しかったので話は聞けなかった。この家を出た後、少し時間があったので見帰りの滝を見に行った。

 

今回の調査ではほとんどしこ名を聞くことができなかった。これは区画整理の後の番地制が村の人にすぐ浸透したせいだと思う。この地域では同じ名字の人が多かったが、屋号などは使われておらず、「〜番地の〜さん」という言い方が村の人たちの間で使われているそうだ。昔から伝わっているしこ名を使っている人はいたのだろうか。もっと多くの人に聞いてみればよかったに違いないと思う。



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