【東松浦郡相知町伊岐佐上中区】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LA97003 赤迫 寛幸 1LA97040 上園 直也 調査日 6月29日(日) 話者:小松武道さま 金嶽アラタさま 明治38年生まれ
<しこ名一覧> 小松武道さま
・その他に聞いた名は小字名と同じ。 ・左伊岐佐川の流れについて、何百年か前はもっと南側を流れていたらしいが、洪水で現在の流れになったらしい。 ・伊岐佐川をはさんで、昔は北側が久里村、南側が相知村となっていたが、合併して相知村となった。合併していなければ伊岐佐地区は現在、唐津市だったろうとおっしゃった。 ・お二人の会話中、小字内の田は、○○さんとこの田んなかと呼ばれていた。 ・この一帯に詳しい人として金嶽アラタさんを紹介される。
金嶽アラタさま 明治38年生まれ
・しこ名よりも番号を使うらしい
[1] 調査の経緯 10:45 現地到着。アポイントでは午後1時に訪問するということになっていたので、とりあえず区長さんの家を探す。 11:05 区長さんの家発見。近所の人により確認。 11:10 休憩所にて作戦会議。自分らの現在位置を把握、調査内容の把握をしておく。 11:30 区長さんの家に向かうまでかなり時間があったので、“見帰りの滝”に向かう。現在「あじさい祭り」が開催中らしく、日曜日ということもあって人が多い。町の人たちや警察が交通整理をしていた。特に何かイベントがあったわけではないが道がきちんと整備してあったり、滝壺のところから山の麓までシャトルバスが運行していたりと観光地として確立しているようだ。“見帰りの滝”というのは日本百名滝の1つらしく、ナイアガラの滝のような壮大なものではないが美しい滝だった。遊歩道が滝壺のすぐ近くまで続いていて、水しぶきが時折かかって心地よい。今日は台風のあった次の日なのに晴天で帽子なしではとてもやっていけないほどの暑さだったが、その滝壺の周辺だけ別世界のように涼しい。滝へ続く道の途中には休憩所や土産物屋が並んでいる。滝壺のところには観音様が置かれていて、滝の向こうには伊岐佐ダムがそびえている。この見帰りの滝が何十年も前、いや何百年も前からなのかもしれないが、村の生活と何らかのつながりがあったと思われる。 12:30 麓の休憩所で再び作戦会議。念のために区長さんの家に電話をかけていらっしゃるかどうか確かめたところ、家におられないらしく電話に誰も出てくださらない。「本当にインタビューができるのだろうか」とかなり不安になる。 13:00 「30分の間に帰ってこられるかもしれない」と思い、とりあえず区長の井上延吉氏の家に行ってみる。しかし、家には誰もいらっしゃらない。このままでは調査にならないので近所の家を訪ねて回って話を聞いてみることにした。 13:10 近くの家を訪ねて回ったところ、初めにここへ来たときに区長の家を教えてくれた中年のおじさんから少し話を聞くことができた。この辺が「松尾」という地区であること、「馬立(マタテ)」は昔ここに馬がつながれていたことからこの名が付いたこと、昔ここに合戦に敗れた武家の集団がこの地に落ちのびてきて、その武家のお姫様の墓が残っていること。昔左伊岐佐川はもっと南の方、白木のあたりを流れていたらしく、それが数百年前大雨で洪水が発生した時に、流れが変わって今の左伊岐佐川になった、ということ。昔このあたりは「クリ村(久里村)」という村で、伊岐佐川を挟んで南側の村「相知村」と合併して、今の相知町になったのであって、合併がなかったら北の「唐津市」と合併していたかもしれないということ等、色々話を聞いた。しこ名を教えてくれることはほとんどなく、田を呼ぶときは「○○○の田」、「×××の田」といった持ち主の名前で呼んでいた。現在ではしこ名などほとんど使われていないそうだ。 ついでに金嶽アラタという老人の名を教えてもらった。この人は太良に住んでいるが、この辺りでは一番の古老らしい。太良には区長が存在しておらず伊岐佐上中の区長が太良も一緒にまとめているということだから、その人に聞けばずっと詳しいことがわかるだろうとおじさん達は言っていた。 13:30 金嶽アラタという老人の家に向かう。しかし道を間違えてしまい、三光神社を抜けた山の中深くまで入り込んでしまった。金嶽アラタ氏の家は山の中にあるという話を聞いていたので、山に入ってしばらく経過するまで自分が間違った道を行っていることには全然気づかなかった。そういえば住宅地図をコピーしたときに、区長の家を中心にコピーしたため、金嶽アラタ氏の家への道が途中で切れてしまっていた。 15,000分の1の地図をコピーした時もそうだったけれど、伊岐佐上中は地図と地図のちょうど境目のところにあり、他の組が1枚で済むところを僕らは2枚用意しなければならないわけで、地図の色分けも大変だった。区長の家以外のところに行くとは思っていなかったから、金嶽アラタ氏の家まで道が続くような地図を用意していなかったのだ。住宅地図もちゃんとある程度の範囲を押さえておくべきだったと反省した。 三光神社は、昔あちこちにあった神社を大正時代に1つにまとめて作られた神社らしい。木々に囲まれて、昼間だというのに薄暗い。夜1人ではとても行けそうなところではない。社の中には木像が安置されていて、それが町の文化財に指定されている。神社の社は古くなっていたが、神社の境内に相撲を取るための土俵が置いてあった。よく見てみると町の企業や一般住民や、多くの人々の出資でこの土俵が作られているようだ。十五夜の時なんかに相撲大会でもあるのだろうか。暗くて気味悪い神社だが、町の人々の生活とのつながりはあるようだ。 14:30 金嶽アラタ氏の家に着いたところ、そこで池園・上野ペアに会った。彼らは太良の調査をすることになっていて、やはりここで聞けば色々話が聞けると言われてきたそうだ。同じ人に同じことを2度も話させるのは少し酷な気がしたので、池園君たちの話を聞いたりメモを見せてもらうことで間に合わせようと思い、金嶽アラタ氏を訪問するのはやめにした。彼らの話では田をしこ名で呼ぶことはもうないらしく、田を呼ぶ時は番号で呼んでいるそうだ。何の番号で呼んでいるのかまでは分からなかったが、太良と伊岐佐上中では田の呼び方が違うのか、それとも僕らが伊岐佐上中で聞いた人と金嶽アラタ氏とは年齢差が40歳以上もあったから、世代の差なのだろうか。とにかくこの辺りで一番の古老だと言われる人からでさえこの調子だから、これ以上調査してもいい調査結果は出ないだろうと思い、調査を打ち切ることにした。 14:40 帰りのバスが来るまで1時間近くあったので、もう一度見帰りの滝に行って時間潰しをした。前にも書いたが今日は日曜日で観光客が多い。「みんな遊んでいるのに僕たちこの暑い中で何やっているのだろう」などと考えたりもしたが、村の昔の様子を知ることができたので、けっこう為になったから、まぁいいやと自分を何とか納得させる。 15:45 帰りのバスに乗った。 40分になってもバスが来ないから、僕たち見捨てられたのか?なんて思ったりしたが、バスに乗り込んだら何となく疲れがどっと出てきて、六本松に帰るまでずっと寝ていた。 完
・干ばつについて 伊岐佐ダム(麓からもよく見えた)があるので大したことはなかったらしい。下流の田は少し乾いたようだ。 対策:上の井手からいつもより多く下の田に水をまわす。 ・肥料について ゴコウ、ニゴウ、金肥、苅敷 ・祭りについて あじさい祭り(当時開催中) ・神社について 各地に点在した神様を大正時代に三光神社にまとめたらしい。(三光神社は暗く寂しいところだった。) ・ダムの周辺や太良辻山などの町の土地を野焼きし、そこで生えた草を牛に食べさせたらしい。
○反省・感想等 前もって連絡をしていた区長さんがいらっしゃらなくて、調査の出鼻をくじかれた。近所の方々が口をそろえて、その区長さんがここら一帯については詳しいとおっしゃったので、大変残念であった。そこで、離れてはいたが90才の方で詳しい方がいらっしゃるというので散々迷って着いたが、よほど有名な方だったのであろう。他地区の調査の人が、その家から出てきた。先を越された。その近所の人は多忙のようで、調査拒否ばかりされて、正に途方に暮れた。 |